クリスチャンホームで育ち、創造主である神様の存在は当然のことだったが、学校の教育は進化論で統一されていた。創世記のエデンの園の事件やイエス様がなされた奇跡などは、おとぎ話の様な感覚で読み、相容れない つの立場の絶対的な相違を追求することもなく、ぼんやりと受け入れていた。大学生のころになると、聖書の非現実的に思われるこれらの出来事を科学的?に解釈し安心していたように思う。
例えば、イエス様のガリラヤ湖での水上歩行は「たまたま浅瀬だった」など。学校では進化論を叩き込まれ、教会で聖霊の働きの現実をしっかりと教えられないクリスチャンが遭遇する落とし穴が、今日も方々に掘られてあると思う。
卒業して病院に勤務し始めてまもないころ、ガンの治療のために米国のP宣教師が入院された。主治医であったことから「人間の生まれた日(進化論と創造論)堀越暢治著」を読むように薦められた。内容は副題に端的に示されているが、終戦の玉音放送を聞いた著者と同僚の行動や心理描写から始まり、イエス・キリストを信じるに至った経緯が書かれていた。
さらに創造論と進化論の考え方を、化石と系統樹、地球の年齢とその測定法、生命の自然発生の確率など多角的に比較し、それらを平易な表現で解説していた。この本を読んで進化論の誤りを初めて理解し、この時点から聖書の読み方が変ったと思う。以降、何冊かの創造論の本を読み、進化論の科学的根拠を調べたが、最も印象的だったのが中学校の理科や歴史で教えられたジャワ原人についての記述だった。
それまではジャワ原人は科学的な調査による現実的な存在と信じていたが、頭蓋骨の一部と2本の歯や、これから8メートルも離れた所から発掘された1本の大腿骨からディボアという学者が自分の想像で考え出したものだということが記されていた。
その後、不思議なことに、いわゆる(キリスト教のプロテスタントの)福音派の聖書理解をされているP宣教師の紹介で奥山実宣教師の集会を紹介され、見学した。異言や癒しの祈りを初めて聞いたが違和感がなく、ごく普通のことだと思った。さらにP宣教師との関わりで知り合いになった方からケニアのトマス・ムーティー師らの集会を紹介され見学した。聖霊の働きとサタンや悪霊の存在の現実と霊の戦いについて語られていたが、その通りだと思った。聖書のもやもやしていた部分がはっきりし、以降は現在の教会につながっている。
2年前の預言のセミナーで「イスラエルに登れ!」との明確な預言が自分に語られたと思い、イスラエルへ行こうと決心した。それから1年間に私を通して男性4名と女性3名がイエス様を信じ救われ、ふたりの方が洗礼を受けられた。
自分で意図せずに福音を語る状況になり、救われ、聖霊様(神様)が働かれていることを体験した。また義理のお父さんの脳内出血の後遺症と難聴の癒しの御業も見せていただいた。
『こうゆうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい(ヘブル人への手紙12章1~2節)。』
小学生のころ祖父が読んでくれたところだ。今日もいろいろ大変なことが沢山あるけれど、信仰の先輩たちのように、祈り聞き従いの道、神様が計画して下さった最善の道をたどっていきたい。
●進化論・・・日本の学校教育で教えられている、例えば人間はサルから進化(変化・発達)したものという誤った教え。ダーウィンらが説く。
●創造論・・・創造主である聖書の神様が、聖書の記述通りに天地万物を創造された。人間は、サルから進化したのではなく、最初から、特別な存在として人間として創造(アダムとエバ)。サルは最初から、サルとして創造。
【み声新聞より】
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