7名に膨れ上がった我が家は、約10年の台湾宣教を終え、日本に本帰国することになりました。アジア人宣教に重荷のある教会のお世話で、大阪に、生活できるように整えられた家が用意され、たんすには着替えまで入れてあり、婦人会のお手製によるチラシ寿司で迎えられ、これからの新しい日本での歩みに力が与えられたことです。
その後、一家は福岡に移り住み、肝臓ガンで入院していた臨終の私の父を見舞いました。「♪~主よ我は今ぞゆく。十字架の血にて潔めたまえ♪」と父の膨れたおなかに手を置き、賛美歌を歌っていると、窓からさんさんと光が差し込んで、天のよろこびが溢れてきました。心配そうな面持ちで集まった家族、親族は、いつしか楽しい団らんの場に溶け込み、これが臨終の人を見守るために集まったとはとても考えられないほどでした。
この父は、私たちが台湾に遣わされたとき、「あなたたちには使命がある。頑張ってきなさい」と握手で見送ってくれ、また日本に引き上げてくることになったときには「台湾宣教ご苦労様」と丁寧な手紙で労ってくれました。父を見送った後、家族、親族の交わりの中で「聖書には『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです』と書いてあるからお父さんの死はいまは淋しいけれど、きっと大きな実を結ぶことになる」と確信を持って証しすることができました。
その後、東京に導かれて、私はひとつの決断を迫られました。どうしてもしたくない……。それはある会社の寮の管理人として働くということでした。仕事が嫌というのではなく、教会生活が自由にできないことは致命的なことに思えたのです。通っていた教会は 朝、昼、晩と礼拝があり、幸い礼拝を休むことは一度もなかったのですが、寮生の食事を作る大きな厨房にひとり置いていかれたような心持ちになったものです。敬虔な生涯を送られたブラザー・ローレンスは厨房で単純な作業をしていたにもかかわらず、主の臨在を持ち運ぶ器として用いられた証しは、私に大きな力を与えてくれました。
通っていた教会にはいのちが溢れ、宣教チームが全世界に向けて次々に送り出されましたが、夫も導かれ40数カ国に亘って宣教に行くことができました。その度に、思いがけず子どもたちの留学の道が次々に開かれていったのです。学びのため長女は中国に、長男、次男、次女はアメリカにはばたいていきました。「心の願いを叶えて上げよう!」と何度も主から語られ、いままで目を向けてやれなかった子どもの教育や成長のため、多くの願いをし、一つひとつ叶えられていきました。
5年経ったとき、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(ヨハネ6章27節)とお言葉を頂き、開拓伝道するように導かれ、2年後埼玉県に引っ越しました。長女が中国での学びを終え帰国し、神さまに献身しました。神学校入学の日、私はいままでになかったほど笑いが込み上げてきました。末っ娘も、イエスさまが大好きで、主の道を歩ませて頂いています。長男、次男、次女も夫々の道を選び、主の大きなみ腕の中で育まれ、いやされ、整えられています。
夫の姉は10年の闘病生活の後、天に凱旋しました。阪神大震災、店の経営不振、彼女の病と悲惨なことが続く中で、息子たち、夫、親族が次々に救われ、親族に献身者として働いている人が何人も起こされていきました。人間の不幸と思われることを益として神は働かれ、彼女の祈りと信仰が大きく用いられました。
私たち家族が日本に帰ってきてから、神さまは実に多くの助けをくださいました。「いと小さき者」のために良きことをしてくださった方々に、主の豊かな御顧みがありますようにと祈らずにはいられません。
台湾の片田舎で、コンクリートに敷かれた50センチ四方の小さな畳に跪き、主に祈った祈り。「私を呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなることを、あなたに告げよう」(エレミヤ書33章3節)がこのような形で、一つひとつ開かれています。
私たち夫婦の思い込み、勢い、犠牲により神の御心を外したことも多々ありました。その度に聞こえてくる御言葉があります。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサムエル記15章22節)と。
圧倒的な勝利を与えてくださる主に期待しつつ、永遠に続く生涯をまっとうできますように!
【月刊誌『雲の間にある虹』 2003年5月号に掲載】