たとい全世界を得ても

 イエス・キリストを知る以前、私はごくあたりまえの社会人として、社会での成功という価値基準の中で生きてきました。聖書がなかったら、今も疑うことなく、この世での成功のために走り回っていたことでしょう。

  しかし、妙に心にかかる聖書の言葉があり、その生き方にもためらいを覚えていました。

  人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

  という言葉がそれです。たとえ私が成功してもいのちを失うなら何になるだろうか、という語りかけが深く心に入りました。そしてこの聖書のいういのちとは何だろうと思いました。

  勿論今生きている私のいのちを指しているのでしょうが、それだけではなく、生き方や人生の価値観にも触れている言葉の様に思われます。

  私たちのいのちとは、はかないものです。数十年を生き、いずれは死を迎えます。しかし、そのいのちを買い戻して下さる方が、実はイエス・キリストなのです。

  イエス・キリストが私たちの罪をあがなうために十字架にかかって死んで下さったことを信じるならば、私たちは永遠に生きる永遠のいのちを与えられます。

  たとい全世界を失うようなことがあっても、まことの命を得ているならば、その人の人生は圧倒的な勝利のうちにあるのです。

 

イスラエル北野

み声新聞2004年5月16日号(261号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)