十字架のことば |
私の知り合いにTさんという人格者がいます。立派な人で、この人こそクリスチャンになるのが早いのではないだろうか、と内心思っていましたが、20数年、いまだに救いを受け入れるつもりはないようです。 マリアの処女降誕が信じられない、というのです。「私は聖書の1ページ目から駄目よ」と、彼女は言っていました。 聖書に、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」という一文があります。 十字架のことばとは、イエス・キリストの福音のことです。イエスは処女マリアから産まれ、何の罪も持たない人として、神の前で自らを十字架刑に差し出しました。このことによって、私たちの罪はあがなわれ、イエス・キリストの十字架刑は私の罪の身代わりであったことを信じ、罪を悔い改めるなら、その人の罪は赦され救われます。そして、3日目に人類の初穂として復活されたことを信じるならば、私たちは十字架によって新しく生まれ、クリスチャンとして永遠のいのちを頂くことができるのです。 私はそのことを一言一句違わずに信じていますが、この言葉が愚かにしか聞こえない人もまたいるのです。 聖書は、これを神の知恵だといっています。救いがもし、信じること以外でなされるならば、能力のある一部の人しか救われなかったことでしょう。 しかし、神は信じることによって平等をはかられました。誰でも福音を信じさえすれば救われるのです。 十字架のことばは、人を左右に分けてゆきます。あえて愚かな話を通して、神は、救おうとするものをとらえてゆかれるのです。 信じるならば、永遠のいのちが与えられます。神の御国に迎え入れられます。福音の力にあずかるには、ただ信じるだけそれだけで何もそれに加えません。 イスラエル北野
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