いちじくにされたこと

  イエスさまがたとえて話された話を紹介しましょう。

  ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこでぶどう園の番人に言った。

  「見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」

  番人は答えて言った。「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。」


  このいつくしみ深い番人はイエスさまを、ぶどう畑をつくり実がなるのを待っておられる人というのが天の神さまのことを指しています。そして、なかなか実を結ばないいちじくの木は、時に私のことを言っているのだと思うことがあります。申し訳なさいっぱいのいちじくは切り倒せと言われてもうなだれるばかりです。けれども、イエスさまはもう1年チャンスをくださいと、父なる神さまにとりなしてくださっているのです。

  聖書の別の個所ではイエスさまのことをたとえて、「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。」と書いてあります。

  世の中には、多くの実を結ばないいちじくや、いたんだ葦(あし)、くすぶる燈心がいることでしょう。自分ではどうすることもできないこれらの1人1人を決して見捨てることなく、むしろ実を結ぶよう労してくださる方が、イエスさまなのです。

  イエスの愛は深く、イエスの愛と労苦によって私たちは変えられています。あなたが今どんな状態であろうと、イエスは今あなたを救うために、ご自身の愛を傾けて労しておられるのです。ですから、イエスがあなたのために死んでくださった十字架の真実を受け取り、クリスチャンとして新しく生まれて歩んでゆきましょう。

イスラエル北野

み声新聞2005年1月16日号(296号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)