弱さの力

  聖書の中に次のような一節があります。

  「わたし(神)の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」

  人間は、強くなりたい、弱さを克服したいと思って日々生きているはずです。私もそのはしくれの1人として、心身ともに強くなることを確かに願っていました。

  しかし、クリスチャンになって思うことは、強くなるということは、実は弱さを受容できるということではないかということです。

  以前できていたことができなくなったり、以前長所だと思っていた所が頼りなくなったり、私は今、本当に弱さの中にいます。けれども、これでいいのです。弱さの中、感謝をささげてゆく中で、神が弱さを用い益としてくださるからです。

  貧しさを知らなかったら、恐らく私は貧しい人をさげすんだことでしょう。病を知らなかったら私は、病んでいる人を無神経に傷つけたかも知れません。

  キリストの福音が届くために、どんどん私は低くされています。そして、今は神様の前に自分の弱さを心から感謝しています。

  よく宗教に走るやつは、弱いやつだ、と言われます。自分が神だ、だから宗教はいらないと豪語している人もいます。

  しかし、それは悩みを持つ前だからこそ、そんなことが言えるのです。本当の強さは、弱さをじっと見守ってやることができることです。弱さに辛抱できますか。

  イエス様はまさにそれを行われました。私たちの罪や咎を負って、十字架に死なれました。神の子としての権利を用いることもなく、私たちが救われるために、十字架を忍んで下さいました。それはある面、弱い姿に見えます。しかし、このイエス様の十字架のゆえに、その弱さのゆえに、私たちは、神との和解をなし、神の恵みを豊かに受けるようになったのです。

  人生はよいところばかりではありません。弱さを覚えるそのときにこそ、神の恵みの約束を思い出し、イエス・キリストをあなたの個人的な救い主としてお迎えしていただきたいと思います。

イスラエル北野

み声新聞2005年2月20日号(301号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)