慰めの神

  病院に入院し、手術に向けての検査の時を過ごしています。まだ、本番でないのに、はやくもほふり場へ引いて行かれる小羊の心境です。この検査だけはやりたくない、そう思っても順番がきたら呼ばれます。私は台の上に身を横たえるしかありません。

  内視鏡を使っての最先端の検査が、とにかく恐ろしくてかつ厳しいものでした。正直なところ、お医者さんが勝手にどんどん進めてくれなければ、自分ではつらくて、途中でやめていたと思います。

  いくじなし、ともっと大変な状況にあって闘っている人には言われることでしょう。誰だって本当はつらい検査や治療を受けたいわけではないのです。しかし、生きるためにやらなきゃならない、進めて行かなければならないというところに病人のつらさ、苦しさ、やりきれなさがあります。

  内視鏡室からの帰り道、
「悲しみの人で病を知っていた」と聖書(イザヤ書53章3節)に書かれているイエスさまをずっと見続けていました。泣いていたかも知れません。なぜだか、イエス・キリストの受難を覚える時に、深い慰めが心の内側からこんこんとわいてくるのです。いくじのない私をゆるし、助け、担い、力づけてくださいます。確かにつらい状況を通されますが、それを上回る慰めが用意されていることを私は学びました。

  聖書のコリント人への手紙第二に、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」 (1章4節)とありますが、まさにその通りです。

  私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

イスラエル北野

み声新聞2005年6月5日号(315号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)