悔い改めの本質

  知られているようで、実は見当違いのことをやっていそうなのが、悔い改めという聖書の教えです。

  皆さんは、悔い改めるということを、どのような行為だとお思いでしょうか。忘れられない一つの罪や行為を何年にもまたがって、悔い続けることでしょうか。

  つぐないをしなければならないと常にそのことが心の重荷となっていないでしょうか。

  世の悔いというものは、私たちを死に至らせます。誰だって失敗は犯しますし、それをそうなる前の状態に戻すことはできません。

  私たちが罪人だということは、こういう事を通しても現されています。

  イエス・キリストは、罪人を招き、悔い改めさせるために来られたと聖書には書かれています。(テモテの手紙第一1章15節ほか参照)そして、ヨハネの手紙第一1章9節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」という約束のことばがあります。

  このみことば通りに、罪を告白する(言い表す)なら、赦しを受け、正しく歩めるよう神は導いて下さいます。

  ある人は、悔い改めを、「方向転換」だと語りました。原語を直訳するとこうなるそうですが、これは上手い表現です。神の前に自分の犯した罪を告白したなら、私たちはこの身を神の側に置きましょう。

  クリスチャンは、赦された罪人です。私たちを罪の世界から取り戻すために、イエス様は十字架という代価を払って下さったのです。

  今まで犯してきた罪を洗いざらい主に告白し、新しい歩みを始めましょう。罪なる世ではなく、天の栄光を目指して、自ら方向転換すること、ここに悔い改めの本質があります。

イスラエル北野

み声新聞2005年7月24日号(322号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)