悟り

 イエス・キリストの福音を聞いて、キリストをわが救い主として信じ、告白し、洗礼式を受けた、となると、世からあがなわれて、永遠のみ国にゴールイン、となります。それは素晴らしい祝福で、本当にうれしいものです。

  しかし、このゴールは同時に新しいスタートでもあります。私たちが地上の生涯を終えるまで、これからは、教会につながり、永遠のみ国を受け継ぐものにふさわしいものとなるよう、いろいろな学びや訓練がなされていきます。

  イエス・キリストを救い主として、信じる決心をしたように、神さまの訓練も、本人次第で決まります。聖書のことばやイエス・キリストのことばは、進んで聞こうとしている人には開かれますが、心が他の事に夢中になっている時は、覆いがかかって、見れども見れず聞けども聞けずという状況になっています。

  マタイの福音書の13章には、種まきの例えとして有名な寓話(ぐうわ)が掲載されています。

  4粒の種が、それぞれ、道ばたや、岩地、いばらの中、そして良い地と4カ所に蒔(ま)かれます。良い地は100倍の実を結びましたが、他のところに蒔かれた種は実を結ぶことがありませんでした。

  また、 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます」 と同19節にはこのように書かれています。

  聖書は、非常に霊的な書物です。私たちの事情を言い当て、神に近づくことができるよう開かれています。

  みことばを聞いて、それを悟る、ということは、みことばから益を受けるために必要なことです。悟ることによって、私たちは次の段階に進みます。しかし、いつまでも悟ろうとせず、神のことばを握ることがなければ、私たちの人生はたとえ救われていても、神の祝福には貧しいものとなります。

  皆さんは世のものと神のものとどちらが魅力的ですか。心が世のものでいっぱいなら、神のものを受けることはできません。

  多くの人が世のものを求めています。しかし、神の与えてくださるものは世のものよりもっと良いものなのです。それを知ることが、悟りであり、イエス・キリストが与えようとしている未曽有(みぞう)の祝福にあずかることなのです。

イスラエル北野

み声新聞2005年9月18日号(329号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)