神のあわれみ

  イエス様がいつも口にされていたことばに、 「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」 (マタイの福音書9章13節)ということばがあります。これが 「どういう意味か、行って学んで来なさい」 とも語られました。

  世の王や君主たちは、自分や民族のために神々を立て、真の神ではない木や金で作った偶像を神として拝み、いけにえをささげました。いけにえをささげる見返りにサタンは確かにそれなりのものを人々に与えました。ギブアンドテイクという霊的な原則によってサタンは動きます。

  一方、イエス様は何と言われたでしょうか。「わたしはあわれみを好む」とおっしゃったのです。サタンの原則がギブアンドテイクなら、神のあわれみは、ワンウエイの祝福です。神の一方的な愛あわれみは、キリスト・イエスが十字架にかかって死なれるというかたちをとって結実しました。イエス様は、私たちがサタンの支配から、神の支配のもとに帰ってくることができる代価として、ご自身の血を流し、十字架の死をまっとうされたのです。

  ギブアンドテイクということでいうなら、十字架がサタンに支払われている以上、サタンは、われわれをもはや支配することができなくなりました。サタンの最後の切り札だった「死」も、イエス様の復活によって効力を失いました。天における永遠のいのちに私たちは入っているからです。

  ルカによる福音書には、イエス様が通られることを聞いて、私をあわれんでください、あわれんでくださいと、主に叫び続けた盲人の話が載っています。(同18章38節)イエスはこの盲人を見えるようにしてくださいました。私は、この盲人が、自分自身のように感じるときが多々あります。本当に真っ暗闇の中、針の穴くらいのほころびから、光が差し込むように、イエス様は希望を下さいます。イエス様が希望です。その希望にすがって、どれだけ助けられてきたでしょう。

  神と私たちは、対等な関係ではありません。神は礼拝されるべきお方であり、私たちは、その下僕です。この霊的位置付けを知っているなら、祝されます。そしてあわれみとは、原則を越え神様の方から私たちに近づいてくださるということなのです。奇跡は、もちろん、起こります。

イスラエル北野

み声新聞2005年10月2日号(331号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)