賛美の力

  人が、もし人たる姿を表すとするなら、それは人が神のみ前に賛美し、礼拝をささげる姿ではないか、と私は思います。

  性格のせいか、私は毎日ひと抱えでは足りないほどの心配や心の煩いを抱えてしまいます。自分の弱さを最も感じさせられる時でもあります。しかし、その時、私には駆け込む所があります。

  神の懐へ、私の隠れ場へ、聖霊は私を誘ってくださいます。神を賛美すること、そこが私の隠れ場です。

  賛美する時、岩に染み入る水のような、ゆっくりと豊かな神の臨在に、静かに満たされます。また、炎のような火があちこちと背を中心として全身に動くように感じる時もあります。世のことを忘れ、一心に主を求めます。そして気が付くと神をあがめ、力強く、神をほめたたえているのです。その麗しいこと、筆舌に尽くしがたいものがあります。

  詩篇に、 「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」 (22篇3節)という一文があります。これは、神のご臨在のことを書いてあるのです。神は、ご自身の民の賛美の中に居てくださる、住んでくださる、というのです。

  賛美を通して、私たちは主を礼拝しています。重荷は取り外され、憂いは慰められ、心ゆくまで主と交わることが許されているのです。これもまた、何と素晴らしいことでしょうか。

  賛美は力です。賛美は、この地上で見てゆくことのできる天の御国の力でもあります。それゆえ、賛美を通して、私たちは魂のいやしを受けます。心ゆくまでいのちの水を飲み、心の渇きが満たされます。そしてさらに、それがこんこんとあふれ、流れ出る川のようになります。また多くの病人もいやされました。主を知らなかった多くの魂が十字架を信じ、父なる神のもとに立ち返っています。これらは皆、主を賛美し礼拝する中で起こっている出来事なのです。

  人は1人で完成することができません。神をあがめ、神とともにある所に、人としての完成した姿が表されていると、私は思っています。

イスラエル北野

み声新聞2005年11月13日号(337号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)