病と神の栄光

  昔から、体が弱くて、病院にはよくお世話になりました。

  時々、病院の中で、「なぜおれが。おれがどうして」と顔に書いてあるような方々に出会います。手の施しようのない病にあっては、誰もがそう思うのではないでしょうか。

  病に関するイエスさまと弟子たちとの応答が、ヨハネの福音書の9章に書かれています。

  生まれつきの盲人を見た時、お弟子たちはイエスにこう質問しました。 「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」

  ひどい言い方です。しかし、当時の社会では、病は罪の結果として現れるというのが共通の認識であったのです。罪の結果として病気になるというケースは確かに存在するでしょう。しかし、病気のほとんどは、望んだわけでもない、一方通行でやってきた招かざる客なのです。

  イエスさまはこの問いに何と答えられたでしょうか。 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」 そう語られたのです。

  また兄弟ラザロが死の床にあるとき(同11章)、イエスに助けを求めに来た姉妹にイエスは、 「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」 と語られました。

  誰のせいでもないのです。神の栄光が現されるためである、というのが、私たちに提示された神の答えです。

  病はいやされます。イザヤ書53章に 「彼の打ち傷によって私たちはいやされた」 こう書かれています。

  イエスさまは、悪魔の仕業を打ち壊すために、やって来られました。イエスさまが十字架上で、尊い血を流して死なれたのは、私たちの罪が赦されるため、また病がいやされるためにほかなりません。

  まずは、イエスさまを救い主として心にお迎えしましょう。そうすれば、あなたは決して死ぬことのない永遠のいのちを受けることができます。そして、あなたの手を合わせて、主に祈りましょう。全ては神の栄光のため、人にはできないことでも、神にとって不可能なことは1つもありません。

イスラエル北野

み声新聞2005年11月27日号(339号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)