弱さのなかにある神の愛

  星野富弘さんをご存じでしょうか。高校の体育の先生をしておられた方で、事故により、肩から下はまひし、今は口に絵筆をくわえて、花や情景、文などを描いて活躍されています。

  その著書に、『愛、深き淵より。』(立風書房)があります。その中で、お母さんとけんかしてしまった時のことが書かれています。

  けんかの後、お互いに無言でしたが、ハエがうるさく顔にたかるので、お母さんがついにハエたたきを握り、ハエ退治に乗り出しました。しかし、顔のハエに対してはハエたたきを握り替え、右手でそっと触るようにして手でたたくそうなのです。星野さんはこれを母の弱さと語られました。そして愛とも。

  別なところで、お母さんに対する次のような記述があります。「母が世間一般にいう強い人なら、(いわゆる自我を押し通す人のことをいうのでしょう。著者注)私をおいて家へ帰り、私のために自分のすべてを犠牲にするようなことはしないで、もっと別な方法を考えたかもしれない。しかし、母には私をおきざりにできない弱さがあった。そのどうにもならない弱さが、いまの母を支えているもっとも強い力なのではないだろうか」

  これを読んだ時、私は次のような聖書の一節を思い出しました。 「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」 (コリント人への手紙第二12章9節)というものです。

  強くあることを求める人は多いけれど、弱さはいつも私たちのコンプレックスになります。弱さが取り除かれることを願う人は多いけれど、逆にすすんで弱さを受ける人は少ないのです。

  しかしながら、聖書の教えに照らし合わせてみると、弱さは、神の力が完全に現れるための土台とされているのです。弱いから、自分の子をハエたたきでたたけなかった、また施設に預け去ることができなかった星野さんのお母さんの愛に、イエス・キリストの愛が交差するのです。

  イエスさまの十字架のみ苦しみは、私をまた私たちを死や罪から贖い出させるためのものでした。もし、イエスさまが強かったら、イエスさまは十字架から、下りられたのではなかったでしょうか。イエスさまが弱さの中に立たれたゆえに、全人類を救う十字架の贖(あがな)いが完成したのです。

  弱さこそが、カギとなるのです。決して強さではないのです。弱さが導くありのままの状況を生き抜いていく中で、私たちは、神の助けを知り、憐(あわ)れみを知り、愛を知り、すべてが栄光に輝くことを知るのです。あなたも聖書のことばを信じ、キリストを信じ、弱さの中から、神をあがめてゆきましょう。

イスラエル北野

み声新聞2005年12月18日号(342号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)