信仰の運用

  小学6年生になる下の娘は、わが娘ながらあっぱれだと思うほど、粘りや信仰にいいものがあります。

  彼女が、今一番欲しいのは、携帯電話です。お友だちとのコミュニケーションの持ち方は、時代によって変わります。今の時代は、大人も子どももメールでやりとりして、遊んだり、大事なことを取り決めたりするのです。確かに、今どきの子は、携帯が無ければ、友人付き合いが、きついのだろうな、と思わされます。

  とはいえ、維持費がかかるので、簡単にはOKを出せません。しかし、娘もさる者、夜ごとに祈り、パンフレットを取り寄せて、意中の携帯を決めてきて、折衝に持ち込もうとしました。まだ早いというのが私たちの見解でしたので、うるさいなと思いながら聞き流していたのでした。ところが、何カ月もこれが続き、古い携帯を持ち出し、目覚まし機能や写メールを活用し、ストラップをじゃらじゃらつけて本体が開通するのを待っています。

  これは、一種の信仰の行為です。ないものを、あるもののように見ているのです。そこまでされたら、神さまも親である私たちも本気で、携帯購入を考えざるを得ません。早晩、彼女の願いは神さまのお心にかない、熱烈に求めていた携帯を手にすることでしょう。

  ルカによる福音書に素晴らしい神さまの約束があります。 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」 (ルカの福音書11章9〜10節)

  娘は、よく分からないながらも、このみことばを実践していたのです。

  だれであっても、このみことばを信じるなら、受けます。信仰は、用いてゆかなければなりません。聞くだけで願わなかったら、それは何の意味もありません。信仰が動くとき、また神のことばも動きます。

  クリスチャンでも、ひいきの引き倒しだとこちらが思うほど、たくさんの祝福を受けている人とそうでない人がいます。信仰の求めによる差が出るのです。競争みたいで嫌だわ、とサタンは思わせ、あなたから恵みを閉ざそうとしています。しかし、本当の信仰生活というのは、戦いです。神のことばを受け、握り通す戦いなのです。

  私たちが、イエス・キリストを救い主と信じ、心にお迎えしているならば、神は私たちにとって、天のお父さまです。その大きな懐に飛び込んで、そのたくさんの祝福を1つ1つ開いてゆきましょう。

イスラエル北野

み声新聞2006年1月8・15日合併号(345号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)