祝福

  結婚式などで、私たちは花びらやライスシャワーを用いて新郎新婦を祝福します。おめでとう、祝福がありますように、と入卒業式でも祝福が交わされます。

  けれども多くの人は、無意識の中にこの言葉を通過させて、それで終わります。なんともったいないことでしょう。祝福こそ、目には見えませんが、確かにその実質があるのです。

  最近、主に臨まれるということが、しばしば起こります。何人かの方も同じようなことが起こっていると聞きました。賛美が導火線になるのでしょうか、何となく口ずさんでいた賛美の歌が、突然本気になり、心から礼拝すると、来るわ来るわ、聖霊さまの生けるご臨在に圧倒されます。

  背中の辺りを中心として、炎が動きゆくのを感じます。また、心には喜びがふつふつとわいてきます。心の傷にも染み入るように主の霊が触れてゆきます。天のお父さま、と祈るも胸がいっぱいになり、何も言えません。

  私は、これしかいらない、主よ、はしためにはこの恵みで十分です…。そう感謝するたびに、あの人もそうだったと思い起こしました。

  パウロです。パウロはピリピ人の手紙の中に、次のような言葉を残しています。 「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」 (ピリピ人への手紙4章17節)

  世の中には、金や宝石など人の好みそうな物がありますが、それよりもまさって優れたものがある、それが神が与えてくださる「霊的祝福」なのだ、というのです。

  祝福の源は神にあります。あなたも神の祝福を受けることができます。それは、イエス、キリストを自分の救い主と信じ、罪を悔い改め、告白することです。罪のあるところには祝福はいきません。しかし、キリストを信じ十字架の前に新しい人とされた皆さん方には、神は惜しげなく祝福を与えてくださるのです。

  求むべきは神の祝福です。人の祝福ですら豊かな祝福を相手にもたらすなら、真の神からくる祝福は、なおさら私たちの思いをはるかに超えて高いものではないでしょうか。

  最後にソロモンの箴言(しんげん)をご紹介しましょう。

「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」 (箴言10章22節)

イスラエル北野

み声新聞2006年3月12日号(353号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)