罪から救いへ

  三浦綾子さんの『塩狩峠』の中に伊木一馬という伝道師が出てきます。自分が罪人であるということがいまひとつ分からないと訴える主人公に、どれでもいい、聖書のことばを、徹底して実行しませんか、と勧めました。

  ちなみにその伝道師は、『汝(なんじ)に請(こ)う者に与え、借(か)らんとする者を拒むな』(あなたにくれという者には与え、借金を申し込みにくる者も拒まずやりなさい)を実行することにしたのですが、10日目に早々とかぶとを脱いだそうです。

  聖書のことば、また律法の教えは、実行するのにとても困難です。考えてみてください。 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 (マルコの福音書12章31節)。この1つの教えでも実際守ることはどれほど困難でしょうか。守りたいと思っても、実践するだけの力もないのです。いや、むしろこれが罪なのです。

  パウロもまた罪に関してこう語っています。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。(中略)もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」 (ローマ人への手紙 7章15節、20節ほか参照)

  そして、それこそが罪の正体なのです。私たちは皆生まれながらの罪人です。罪持つ者として生まれ、罪の結果である死へと向かっています。この私たちを救うべくして来られた方はどなたでしょうか。

  イエス・キリストです。イエスさまは、何の罪もない完全な人であり、また神です。定められた時に受肉され、十字架によって、私たちの身代わりに死んでくださいました。そして3日目に復活を果たされ、死とサタンに対して勝利を得られました。

  このイエスによって私たちは、新しい心と永遠のいのちを与えられました。神の愛と恵みは、私たちをサタンから買い戻してくださいました。そして、罪への勝利が与えられました。イエス・キリストの福音を信じましょう。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」 (使徒の働き4章12節)

イスラエル北野

み声新聞2006年3月19日号(354号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)