こころ

  イエスさまは、ご自身の教えの多くをたとえを用いてお話しされました。それは、つまり、聞く耳のある者は聞きなさいということで、群集や弟子たちは、おのおの自らの聞く力に応じて、イエスの教えに触れていました。

  種蒔(ま)きのたとえという有名な聖書の教えが、福音書に載っています。ルカの福音書8章をご覧ください。種とは、神のことばを、蒔かれる土壌は、私たち1人1人の心を指しています。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった」 (5節)

  このたとえの意味はこうです。 「道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです 」(12節)

  さらに、種は、岩地に落ち、またいばらの真ん中に落ちました。岩地に蒔かれたとは、聞いた時には喜んでみことばを受け入れるが、試練の時になると、根が無いので簡単に身を引いてしまうのです。

  いばらの中に蒔かれるとは、世の富や快楽などが共に生え、せっかく育とうとする種の育成を阻むのです。

  そして、最後に、良い地に落ちた種は、生え出て100倍の実を結ぶと書かれています。

  私たち誰もが、100倍の収穫を味わってみたいと思うでしょう。聖書は霊的な書物で、私たちの必要をピタリと言い当てることがあります。私たちの心を神のことばを受けるようにセットしましょう。神のことばは、生きて働いているのですから、正しい心を持って聞くなら、豊かな収穫に喜ぶようになります。

  受けるも、失うも、ともに心の土地次第です。それゆえ今、私たちは、「全き心」を主に求めませんか。

  最後に聖書、箴言(しんげん)の一節をご紹介します。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」 (4章23節)

  イエスさまを救い主と信じ、新しくされた心をもって、大いに祝福されようではありませんか。

イスラエル北野

み声新聞2006年4月30日号(360号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)