時が満ち

  四国の鳴門で生まれ育った私には、皆さんよりはほんのちょっと、海について詳しいかもしれません。

  海を遊び場としていたものですから、危険な目にも遭いました。春は、あさりが採れるので、熱心に砂を掘り起こしていると、気が付けば、満潮になっていて、岩場に取り残されたということもありました。

  海の満ち引きというものを体感として自分の内に持っていることは、私にとっては財産の一つです。

  ところで、マルコの福音書1章に、新約聖書を代表するイエスの宣教のことばがあります。 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」 (15節)というものです。

  時が満ちた、このことばの深い意味に心を傾けてください。何千という年月を待たれて、やっとやって来られたのです。

  何がでしょうか。イエス・キリストです。イエスは、全人類の罪を贖うため、満を持してやって来られたのです。

  伝道者の書の第3章にこんな文があります。 「天の下では、何事にも定まった時期があり、全ての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。(略)捜すのに時があり、失うのに時がある。(略)愛するのに時があり、憎むのに時がある。(略)神のなさることは、すべて時にかなって美しい」 (1、6、8、11節)

  何事にも時があるのだということと、神がその時を治めておられることが分かります。

  人は自分の時間ひとつでさえ変えることができません。時は神のものであり、神の時に動くのです。

  しかしながら、今は恵みの時代で、福音により天の御国の扉が大きく開かれている時でもあるのです。イエス・キリストを信じ、罪を悔い改めるなら神は皆さんを、子として迎えてくださいます。私たちが生きている今の時代は特別な時なのです。

  やがて、時が終わり、主イエスが再び来られる、新しい時代がやってきます。その前にぜひともこの救いにあずかってください。

  時が満ち、時代は変わり、また、終わります。 「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」 (ヨハネの福音書12章36節)

イスラエル北野

み声新聞2006年5月7日号(361号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)