色めがね

  恋に恋する年ごろを曲がって、私の2人の娘もいよいよ高校生と中学生となりました。制服に袖を通すと、急に大人びた顔を見せるので、ハッとします。これからは1人の大人として、人格を尊重するような接し方をしていかなければならないなぁ、と思わされています。

  娘が大切にしているお友達にAちゃんというお友達がいます。お化粧が上手で、娘の良きファッションアドバイザーです。そうなんですが、ギャル語を用い、カラオケに行き、という派手な中学生活に、(地方では、こんな所しか行き場がありません。そこをご理解いただきたいです)赤ランプが点灯しました。

  私は、受験を控えているので、遊びの道は高校から、と言い聞かせて、Aちゃんと接することも控えるように言いました。

  ところが2、3日前、あるコンビニで、レジを打っていた女の子と主人が親しそうに話をしているので、どうしたのか聞いてみると、Aちゃんだよ、と教えてくれてびっくりしました。何の非もない清楚(せいそ)な店員さんがそこにいたからです。

  その時私は、自分の眼に色めがねがかかっていることに気づいたのです。彼女たちの見せる一断面を全てだとする決め付けこそ、彼女たちが最も嫌ったことではなかったでしょうか。

  多かれ少なかれ、私たちは皆、色めがねがついています。思い込みや、偏見、決めつけ、そんな不出来なめがねをつけていたら、神さまが触れようとしている1つのたましいからその機会を失うことになりかねません。私は主の御前に悔い改めました。

  私たちは誰1人として例外なく、生まれながらの罪人です。それゆえ、罪があるゆえに物事が歪んで見えてくるのです。

  しかし、イエス・キリストの目は、曇り1つありません。イエスは、姦淫の女、貧しい者、ごろつき、などとともに歩まれました。彼らは、人々からはさげすまれましたが、イエスはその彼らを愛されたのです。

  私たちは、この「色めがね」から解放される必要があります。イエスさまを信じ、受け入れましょう。そして、イエスさまに求めましょう。かつて、盲人の目をいやされたイエスさまが心の盲人をいやされないことがあるでしょうか。イエスさまは、人が見るように、色めがねであなたのことを見たりしません。イエスさまに信頼してください。そうすれば、イエスさまの愛によって、私たちの色めがねは取り去られ、はっきりと見えるようになるのです。

イスラエル北野

み声新聞2006年5月21日号(363号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)