教会へ行こう

  ヨハネの福音書15章には、ぶどうの木をキリストに、農夫を父なる神になぞらえたお話があります。

  われわれ人間は枝に例えられ、イエス・キリストの十字架の福音を信じた者は、キリストのぶどうの木に接がれ、そして養われていきます(反面、聖書にはあえて枝につながろうとしない枝は投げ捨てられ、捨て去られるとも書いています)。

  やがて時が来て、収穫になります。たわわに実ったぶどうの房が、誇らしげに実を結んでいます。中には、自分にうっとりとして、「私は太陽の光を浴び、甘みは熟した。色良し、つや良し、味も良し、最高だ」と自分を誇ってみせるぶどうもいそうではありませんか。

  しかし、いくらぶどうが素晴らしくても、支えているのは木なのです。木が養分を吸い上げて、枝に流すので、実ができるのです。スポットライトはいつも、実に向きますが、支えているのは木、すなわちイエス・キリストなのです。

  昨年の今ごろ、私は胆石症で入院し、手術をすることになりました。多くの方々が支えてくださり、ささげてくださり、また祈ってくださいました。衷心より感謝申し上げます。

  病の床にあって、一番びっくりしたのは、祈りがきかれるということです。個人的に祈って、助けを受けるということはありますが、教会全体で祈られるということは、その力はやはり個人の比ではありません。教会には特別な力があるのです。

  私たちは、皆さんがこの教会の守りと恵みに、積極的にあずかることをお勧めします。

  まず、イエス・キリストを救い主として信じましょう。そして今まで犯してきた罪を洗いざらい主に告白して、それを捨てましょう。そうすれば、あなたは、キリストの木につながれた枝となります。枝を通しての祝福は多く、良いものに欠けがないほど祝福されるでしょう。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」 (エペソ人への手紙1章23節)

イスラエル北野

み声新聞2006年5月28日号(364号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)