光への招待

  夏の旭山動物園では、蛍の小道という催し物があります。清少納言の『枕草子』に夏の風物詩として書かれているので、ぜひ一度、蛍に会ってみたいと思っていました。

  水の流れる川を大きなビニールハウスで囲んだ小道を行きました。ちーか、ちーかと暗闇の中に無数の蛍が放たれていました。

  手を伸ばせば、手の内に入る、はかなくてもろい命です。

  小道を歩いている間、私は蛍を追ったり、捕まえたりはしませんでした。そこここに蛍がいるので、十分に楽しめたからです。

  やがて出口がきて、再び暗闇の中に立ちました。あまりにも暗いので、蛍を、光を、持ってくるべきだった(もちろんそんなことが許されるわけではないのですが)と思いました。

  聖書のヨハネの福音書1章9節に 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」 という一文があります。そのまことの光とはイエス・キリストのことをいっています。そして更に、 「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」 (同12章36節)と勧められています。

  イエス・キリストの十字架を信じて救われるという幸いな時期にわれわれは生きています。しかし、やがては、この扉は閉じられてしまいます。それゆえ、今、決断し、今救いを受けましょう。

  蛍を楽しみながら、それを握ることのなかった私は、道の終わりには再び暗闇に戻っていました。

  確かに光を見て楽しむことはいいことです。しかし、光を、イエスを持つことの方がはるかに大切で重要なことなのです。

イスラエル北野

み声新聞2006年6月25日号(368号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)