おそくなっても、それを待て

  私たちの教会の群れは、終わりの時代に起こる、神の救いといやしのみわざを委ねられている教会です。教会がスタートしたころ、約20年ほど前になりますが、アメリカ宣教に出たチームが、リバイバルの約束を胸に帰ってきました。

「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」 (ハバクク書2章3節)という約束のことばを頂いたのです。

  多くの場合、約束の成就は、私たちの思っているところより、長く待たされます。また、待てるか、ということが神のしもべにはよく試されるのです。

  イスラエルにサウルという王様がいました。彼はイスラエルの初代の王です。サムエルという預言者が彼を指導していました。

  ある時、サウルはサムエルと落ち合う計画をしていましたが、サムエルは現れませんでした。翌日もその次も、とうとう7日たち人々が散り始めたのを見て、サウルは思い切っていけにえを取り、自分でそれをささげてしまいました。

  そこに、サムエルが到着したのです。当時、いけにえをささげることは、王の役割ではありませんでした。神の定めを越えたサウルの不敬罪がまずサムエルから言い渡されました。

  人が自分から去っていくことがサウルは怖かったのでしょう。しかし、神の声に聞き従えるかどうかの試験だったのです。

  たとえ人が0(ゼロ)になったとしても、サウルはそこでサムエルを待っていなければならなかったのです。

  神のことば、約束をしっかり握って、歩みましょう。イエスさまがおっしゃった通り、約束の内に立っているなら、実を結びます。

  さて、リバイバルが始まろうとしています。「それは必ず来る。遅れることはない」と語られているのですから、いつ主の時が来てもいいように備えておきましょう。

イスラエル北野

み声新聞2006年9月3日号(378号) 」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)