愛、というと誰もがその求道者ではないでしょうか。

 私も思春期に入り、異性を意識し始めたころ追いかけていたのが、愛でした。人に求め、異性に求め、「愛が分からない」そう言っては、傷つき、別れを繰り返していました。いわば、恋に恋する年ごろであったようです。私の友人のMさんは、「愛とは情熱である」と言いました。Bさんは「忍耐である」と言いました。後に夫となったKさんは「愛は犠牲になることをいとわない心だ」と言いました。

 さらに、私の父は「もし食糧難になったりしたら、お父さんは、よそからもぎ取ってでも、おまえらに食べさせてやる、これがお父さんの愛だ」と語りました。なんと多くの愛に囲まれていたことでしょう。そのどれもが本物でしたが、心の鍵穴にピタリとくるものはありませんでした。

 聖書では愛についてこう書かれています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません」(コリント人への手紙第一13章4-8節)

 これを全部クリアすることは人にはできません。愛とは神のものであり、神が私たちの心の穴を埋めてくださいます。 また、神の愛を結実させたのはイエス・キリストの十字架です。すべての人の罪を負って死なれました。私たちを神と和解させ、死から私たちを取り戻してくださいました。神が支払われた代価は大きいものでした。しかし、救いの喜びの前に、喜んで神は、ひとり子イエスを世に送られたのです。

 これほどまでに私たちは愛されているのです。神の愛を受け取ってください。

イスラエル北野