律法から恵みへ

 先日、ある姉妹が、就職試験を受け、採用されました。コンピューターを扱う会社で、いかにもその分野に精通しているような人が大勢来ていて、ああ、これでは無理かな、と思ったそうです。

  ところが、ふたを開けてみれば、見事採用となったのです。どうして受かったのか、後でその理由が分かりました。

  パソコンは時間をかければ、皆、ある程度できるようになる。しかし、人柄は時間をかけても変わらない。だから、職場の環境が良くなるように、パソコンの習熟度より、人柄で採用を決めた、ということでした。これを聞いて、世の中にはこういう社長もいるんだ、と私は久々に感動しました。

  弱い者をあえて選ぶということは、聖書の中にもしばしば登場する、基本的な流れです。

  さて聖書に「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(マタイの福音書9章13節)とあります。

  イエスさまは、よく多くの取税人や罪人、遊女などと食事をしていました。彼らは、イエスに罪を赦していただいたのです。彼らは罪と孤独のはざまに立って、どんどんかたくなになって社会から捨てられた石でしたが、イエスさまは、その一つも忘れることなく、あわれんで、みもとにかき集めてくださったのです。

  いけにえは、自分の罪の身代わりに、羊などをほふる旧約時代の律法で、そこには本当の救いはありません。 新約の時代に入り、もはや律法の束縛は、イエスの十字架によって砕かれたのです。神は律法に代えて、恵みを私たちへのはかりとされました。ありのままのあなたを取り戻すためです。

  いのちを懸けて、イエスさまは十字架にかかられました。このイエス・キリストこそ、真の救いです。

  あなたもこの愛を受け入れましょう。

イスラエル北野

み声新聞2007年4月22日号(第411号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)