できるものならと言うのか

 マルコの福音書の9章に、悪霊につかれた息子のいやしが描写されています。

 その子は、霊につかれると、所構わず押し倒され、泡を吹き、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。イエスは、父親に「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか」と尋ねられました。父親は言いました。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」

 するとイエスは言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」

  するとすぐに、その子の父は叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください」。イエスは霊をしかって、その子から追い出し、二度と入ってはいけないと命じ、霊は叫び声を上げ、その子をひきつけさせて出ていきました。

  イエスさまは、わたしたちの救い主であり、いやし主です。

  いやしは恵みです。イザヤ書53章にも、イエスさまが十字架にかかって受けられたその打ち傷と引き換えに、いやしはなされると書かれています。

  イエスさまに、信仰によっていやしやことばを求めた人は、決して失望することがありませんでした。これはすべての人に与えられている約束です。

  しかし、先ほどの父親のように、「もしおできになるものなら」という言葉では、まだ信仰が熟していません。それ故、イエスは「信じるものには、どんなことでもできるのです」と父親の信仰を呼び覚まされました。

  十字架によって、いやしの道は完成しています。主イエスに期待していきましょう。

イスラエル北野

 

み声新聞2007年8月26日号(第429号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)