いやしの信仰

 わたしたちの群れのリーダーであるP牧師の二男は、生まれながらの脳障がいでした。神は、この病をいやすと語られ、そのことば通りに、彼は今では利発で健康な青年として育っています。

  当時、同じような病気のお子さんを抱えるお母さん方が、彼の病が神に祈ることによっていやされてきていると知って、教会に頼ってこられました。

  しかし、あるお母さんは、教会まで足を運びながら、「祈らないでください。今のままで十分幸せですから」と祈りを辞退されたと聞きました。

  怖かったのではないか、とわたしは思います。もし、祈ってもらっても何もなかったのなら、という失望を恐れるあまり、またわが子いとしさで、障がいがあってもありのままでこの子を受け入れよう、そう思われたのではないでしょうか。

  世の通念では、神癒の確率は、宝くじに匹敵するほど難しいことなのです。

  残念なことは、そのお母さんが、イエスさまを知らず、聖書を読んでいなかったことです。

  マタイの福音書8章16節を見ると「また病気の人々をみなお直しになった」とあります。注目していただきたいのは、主は病気の人々を「みな」お直しになったと書かれているところです。イエスさまのいやしは、限定などありません。求める者は皆、いやしていただきました。聖書の中に、同じようないやしの記述は数多くあります。

  あなたがイエスさまを信じることによって、失うものがありますか。何もありません。イエスを信じていのちを得てください。神は赦すため、救うため、そしていやすために、今も教会を通して、みわざを進めておられます。

イスラエル北野

み声新聞2007年11月4日号(第439号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)