神の「時」

 神さまは、わたしたちに、多くの約束のことばを与えてくださいます。しかし約束の成就の「時」は、わたしたちにとっては、往々にして、遅れ気味にやって来ます。

 イスラエルの初代の王様サウルは、預言者サムエルの指示に従って、7日を待ちましたが、サムエルはなかなか来ず、民が離れていき始めたので、サムエルがささげるはずのいけにえを、自分でささげてしまいました。そこにサムエルは到着したのです。そして、サウルの王座は確立しないとの宣告を受けました。

 あと少し待っていたらうまくいったのに、と思う例を、クリスチャン生活の中で幾つ見てきたことでしょう。

 中でも印象深かったのは、イスラエルへ長期で遣わされる召しを持ったA姉妹のことです。召命のことばはありましたが、一向に、働きが開かれない様子に見切りをつけて、「もっときちんとイスラエル派遣を行う別の教会へ行きます」と去っていかれました。

 それから幾らもしないうちに、神の「時」が満ち、わたしたちの教会から2人の姉妹がイスラエルに遣わされることになりました。その前夜、久しぶりにA姉妹は電話をかけてきて、その話を聞いたのです。A姉妹の前には、イスラエル派遣の扉は閉ざされたままでした。

 「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅くなることはない」。聖書の、ハバクク書2章3節には、このようにあります。

 「時」は神さまのものです。すべての「時」は、神のご支配のうちに置かれています。わたしたちは神を恐れ、忍耐をもって「時」を待ちましょう。「時」満ちて、神のことばは実現するのです。
 

イスラエル北野

み声新聞2007年11月25日号(第442号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)