試練

 試練は、ある日突然やってくる招かざる客です。しかも試練は、往々にして、忍耐を従えてやって来ます。自分ではもはやどうしようもなく、ただ一方的に待たされる、これが忍耐です。

 聖書に「ヨブ記」という書巻があります。ヨブは、病の人、試練の人として有名です。彼は全身に及ぶ重い皮膚病が許されました。ヨブは、なぜ病が許されたのか教えてください、と切々と神に申し出ます。

 わたしもまた、ヨブのように叫びながら、闘病生活を送った経験があります。どうしてわたしに、なぜこんなことが、せめてそのお答えを頂きたいと必死に祈りましたが、神の重い沈黙がすべてでした。

 今は、それから二十数年になりますが、ようやくその解き明かしを教えていただきました。

 コリント人への手紙第二の1章に、次のようなみことばがあります。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(4節)

 神は確かに厳しい道を行かせますが、神の慰めが、また共にあるのです。人では決して届かない、深い深いところに、神の慰めが伏流水のように流れているのです。この水をくんで飲み、また飲み、そうして力を得ながら試練を乗り越えていきます。試練は、最終的には、他の人に対する奉仕なのです。

 このいのちの水を、イエスキリストを、伝えることが、試練を通された者のもう一つの召しなのです。あなたが受けた慰めをもって、他の人にそれを与えることができるとは、なんと深い摂理でしょう。
 

イスラエル北野

み声新聞2007年12月9日号(第444号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)