もしそうでなくても

 紀元前600年ごろ、多くのユダヤ人が、バビロンに捕囚されていきました。その中に、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいました。

 ある時、バビロンの王、ネブカデネザルは大きな偶像を立てました。彼はすべての者がこの像を拝むよう命じましたが、先の3人のユダヤ人たちはそれを拒否しました。

 彼らが像を拝まないことを知らされた王は、「…もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう」(ダニエル書3章15節)と言いました。

 しかし、彼らは、「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。(中略)しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」(17、18節)と言いました。

 これを聞くと、王は怒り、炉を7倍熱くするよう命じ、その中に彼ら3人を投げ込みました。ところが、王は「…火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ」(25節)と言いました。

 彼ら3人は王に呼ばれ、火の中から、何の害も受けずに出てきました。

 もしわたしがその立場なら、炉に投げ込まれる前までに救い出されると考えるはずです。しかし、神の計画は、さらに高かったのです。彼らが神の助けを見たのは、炉に投げ込まれた後です。

 「もしそうでなくても」。この告白は、主に対する信頼を決して捨てない、という彼らの信仰を物語っています。このような信仰に、神もまた応えてくださるのです。
 

イスラエル北野

み声新聞2007年12月23日号(第446号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)