安息

 60年代に生を受けたわたしたちは、何でもかんでも、すべてに「頑張る」という教育理念を下敷きにして育てられてきたように思います。

 頑張ったら何とかなる、という発想は、取りも直さず、何ともならないのは頑張りが足りないと言っているようなものです。

 これでは、常に何かと競争しているようなもので、いつのころからか、わたしも休むことを許されない足かせの中に自分がいることに気付くようになりました。

 街中で教会を見かける時、この人たちのように神を信じられたらどんなに楽だろうと思いつつ、しかし、教会の案内に書かれていた聖書のことばに強く引かれました。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイの福音書11章28節)

 それは、イエスのことばでした。

 その後決心して、わたしはイエス・キリストを救い主として信じました。しかし、重荷の下ろし方がいまひとつ分からず、すべてに「頑張る」クリスチャン生活を長く続けていました。

 最近になって、やっとその方法が分かりました。重荷を下ろすとは、神と交わることの中にあるのです。

 賛美の歌を歌い、すべての事を感謝し、主の御顔を仰ぐ時、新しい力が内側からわいてきます。

 この休むという行為は、創世記で、神が7日目を聖とし、すべてのわざを休まれたというところからきた、霊的な意味を持つ非常に重要な行為です。

 休むという事柄には深い意味があります。主イエスと交わるところに、霊、肉、たましいに安らぎがやって来ます。
 

イスラエル北野

み声新聞2008年1月20日号(第450号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)