慰めを分かち合うために

 神の摂理の中で、人にはそれぞれおのおのの困難や苦難が許されます。

 「なぜ、わたしにこんな苦しみが!」と神に叫んだ人も多いでしょう。かくいうわたしもその1人であったからです。

 聖書には、ヨブ記という巻があるのですが、ヨブもまた、いわれない困難をくぐっていった人でした。家族、財産が取られ、重い皮膚病が許されました。彼は第一に、神に、なぜこのような試みが許されるのですか、と求めるのですが、なかなかお答えを頂けませんでした。

 けれどもついに彼の時が来た時、ヨブは今まで以上に素晴らしい神さまとの交わりに入ったのです。苦しみが許されていることの1つの意味は、神をより近しく知るということにあるのだとわたしは思います。

 また、コリント人への手紙第二の1章には次のように書かれています。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(4節)

 あなたが苦しみを通ったもう1つの理由とは、あなたが同じような苦しみの中にいる人への助けとなるために、神さまが先んじてそうさせてくださったのです。

 苦しみは、あなたというよりむしろ他の人のために、それがあったのです。これが人生の素晴らしいところです。

 ですから神の慰めを受け、それをもって慰めが必要な方の所へ行きましょう。慰めを分かち合う中に神はおられ、あなたの傷をいやし、そして相集って神をほめたたえるように、神はしてくださいます。


イスラエル北野

み声新聞2008年6月1日号(第469号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)