待つ

 せっかちな両親の元に、せっかちで生まれたわたしは、とにかく「待てない」性分です。

 病院に入院しても、あと少し治療すれば完全というところで、それが待てなくて強引に退院し、結局、再入院を繰り返すというパターンもありました。

 聖書を読んでいても、「イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て」(詩篇131篇3節)とよく語られます。

 主を待つということはとても重要です。神さまのみわざにあずかるには、待つことが必要です。時を「待てない」ということは大きな損失になります。

 イスラエルの初代王であるサウロは、預言者サムエルが来るのを待てなくて、サムエルがささげるはずのいけにえを、自分でささげてしまい、後に王座は、ダビデの元へ移りました。

 エサウも、猟から帰ってきて、あまりの空腹で、弟のヤコブの煮たレンズ豆を食べたいがあまりに、長子の権利(祝福)をヤコブに売りました。

 これら失敗した人の共通点は、待つことができなかったことです。神の、み思いとご計画は、わたしたちの考えをはるかに超えます。一見何も変わらず、何も起こっていないかのように見えても、見えないところで神の手は動いており、神がご自身の主権をもって定めた時に、必ず事は成就するのです。

 神さまの栄光を見るためには、この神の手を信仰の目を持って見、時を待つことが必要です。

 わたしたちの教会の群れに与えてくださった約束のためのみことばもまた、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク書2章3節)と語られています。

 神さまの約束は、待つことが求められます。神の時を待ち、約束の成就を見ていきましょう。

イスラエル北野

み声新聞2008年6月29日号(第473号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)