小学生のころ、よく雑草抜きをさせられました。根っことの力比べで、なかなか楽しい作業でした。

 わたしは、わが家の最初のクリスチャンです。宗教嫌いの父の下で信仰を持ったがために、言葉といい、時には力づくでも信仰を捨てるよう、強い迫害を受けました。

 同じころ、クリスチャンとなった友達の家では特に何の反対もなかったと聞き、何でうちだけこうも許されないんだろう、と思いました。しかし、迫害されればされるほど、この宗教の真理を知り、その素晴らしさ故に、わたしはいよいよ熱心に主を求め、ついには、キリスト教をなりわいとするまでに信仰は進み、今に至る道のりがあるのです。

 時は流れ、神の時に、わたしの父も信仰を頂き、新生し、素晴らしい証しを残して天に凱旋していきました。

 そして、その時ようやくわたしは主の大いなる御手に気付いたのです。

 わたしの信仰は、父の徹底した迫害があったからこそ、雑草のように強い根っこを地中深く張ることができたのです。信仰の根を育てるため、神は迫害をも許しておられたということです。

  父は、そそり立つ壁でした。強い壁でいてくれた故に、思い切り信仰を打ち込み、是非を問いました。わたしの信仰は迫害の中で培われたのです。

  神はあらゆる手段を用いて、わたしたちに益を与えてくださるお方です。この方にあって、それだけで悪いというものはあり得ません。悪い事と思われる中にこそ、このような神の偉大な計画が用意されているのです。神の御思いは高く、人間の知恵も及ばぬものです。すべてが益とされるのですから、何があろうと神に信頼していきましょう。

イスラエル北野

み声新聞2008年8月31日号(第482号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)