人生を続けていると「世の中甘くない」とか「そんなうまい話はない」とか、世には、世が作り出したいろいろな教えや知恵があることに気付きます。
ですからわたしも「物事を良く考えるのは甘ちゃんだ。悪く考えなければならない。良い事など起こるはずはない。悪くて当たり前」と考えるようになりました。そして、いつの間にかわたしの心の中には、否定的な思いがしっかりと根を下ろしてしまいました。
神さまを信じると、その心の根底から変わる必要に迫られてきます。神さまの祝福にあずかるためには、神さまが良くしてくださることを信じなければならないからです。しかしそれは、わたしが人生で学んできた世の教えと正反対のことです。信じたくても信じられない、そして信じることのできない自分を責め始め、罪悪感に悩む、このことの繰り返しでした。
聖書では、同じような苦しみの中にいた人の記述があります。マルコの福音書の9章14節からの記述です。悪霊につかれた子どもの父親が「…もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」(22節)とイエスさまに助けを求めます。イエスさまは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」(23節)と答えます。すると父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」(24節)と叫びました。イエスは、父親の願いを聞き入れ、子どもをいやされました。
信じることは、聖書に反する世の教えを、その根幹から捨てることを意味します。神さまは、捨てる力を与えてくださり、わたしたちが神の祝福を信じるように助けてくださいます。イエスさまを信じましょう。
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