ルカの福音書4章 講解

講解10    2001.11.4
ルカ4章1〜13節 ここで、サタンの誘惑の事がでてきます。ここは、解釈のむずかしい所ですが、こ の解釈のポイントは、イエス様のことばにあります。【1節】「御霊に満ちたイエスは〜御霊に導かれて荒野におり」と書いてあります。 イエス様は、聖霊様に満ちられて、そして御霊に導かれ荒野に行きました。これは、 困難な所を象徴しています。又この時は、イエス様の公生涯の始まる直前の備えの時 でした。最後の備えの時に、荒野に行ったのです。
 そして、「40日間悪魔の試みに会われた」と書いてあります。御霊が荒野に導い て、サタンの誘惑を受けさせたのです。ヘブル書には「愛する子にムチを加える」と 書いてあります。私達は、試みを受けるものなのです。この時、主に対する信頼を失っ てはなりません。サタンは、ここで惑わそうとします。サタンのずらし方は、大体困 難を通します。
 そして、最初の試みは「40日間〜空腹を覚えられた」(2節)。そして、お腹が 減った後で「パンのなれ」という事を言ってきました。サタンの試みを見る時に、サタンは、見当はずれではなくポイントと時間をついてきます。イエス様は答えておられます。「人はパンだけで生きるのではない」これは、イエス様の言われた事の1部です。全体の方はマタイの福音書4章3、4節に出ています。中心は神のことばだと言っています。神のことばは、私達にすべての物を与えます。この時に、神のことばに対するサタンの惑わしがきているわけです。
 【5、6節】サタンは、世の物を持ってきます。世の物を見せて主に仕えさせなくさせるのです。私達は、何に仕えているのかという事をはっきりと見る必要があります。それと共に、神に従うと大きな祝福を受けます。ここで、主は「主にだけ仕えよ」という事を言っています。【9節〜】これは、私はこれをやれば神様は支えてくれるはずだ。という事を言っています。実は、これは逆です。私達は、神が言われた事をやっていくのです。そうしますと、神が働きます。私達は、試してはいけないという事をここで言っています。そして、この3つの事がイエス様が本格的に働きに立つ前の最後の出来事だったのです。そして、この試みが次の働きの基盤になってくるのです。  (文責 石井)

講解11    2001.11.11
ルカ4章14〜17節
 13.14節で「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。」と書かれています。この時に、悪魔の試みを受けた後に、御霊の力に満ちられてガリラヤに帰られた。という事が書かれてあります。この試みの形というのは1つです。それは何かといいますと、3つのポイントでサタンは試みたのですが、それは神のことばからずらさせようとしているのです。ですから、神のことばで答えているのです。
 イエス・キリストは、そのことばからずらさせようといろんな誘惑を受けたという事をこの中で見ます。しかし、そのことばにイエス・キリストは立ったのです。立って、悪魔が離れた後に「御霊の力を帯びて帰られた」という事がこの中で書かれています。
 この時に、1つの行為がなされた事に気がつきます。すれは、神のことばに立ったという事です。サタンは、私達を神のことばかれずらさせようとやってきます。そして、私達は罪人です。ノンクリスチャンは救われない罪人で、クリスチャンは救われた罪人です。罪の思索というのがあります。罪の思索というのはサタンと親しいのです。神でない考え方、不信仰な考え方と親しいのです。しかし、私達は神のことばに立つ必要があります。立つ時に、ことばの実質、そしてことばの約束の成就を私達は見ていくのです。
 サタンは、神のことばからずらしていきます。イエス様が公生涯、具体的な働きに立たれる前に、最後にこの誘惑を受けられて、そして勝ったという事は非常に大きな意味合いを持っています。
 そして、私達も同じような常なる戦いがあるという事を覚えておいて下さい。例えば、「主に信頼する者は、失望させられることがない。」と書いてあるので信頼すれば、失望する事はないのですが、わらにもすがるの、わらの様に何の力もない様に感じてしまう時もあります。この時に注意しないといけません。神のことばは、確かなのです。そして、その様になってきます。具体的に私達は神のことばに立つという事が非常に重要な意味合いを持っているという事を覚えておいて下さい。(文責 石井)

講解12    2001.11.18
ルカ4章18〜30節
 18節〜は、イザヤ書61章1、2節の引用で、メシア(キリスト)について書かれたといわれています。油は聖霊様を象徴しています。「油注がれた者」はキリストの語源です。神様は油を注がれて、貧しい(悩み苦しんでいる)人々に、福音を伝え、解放されるためにキリストを遣わされたということです。主の恵みの年とは、新しい救いの時代(新約時代)が来たことをいっています。旧約時代は律法を行うことで義と認められましたが、新約ではイエス様の十字架を信じるだけで義と認められます。そしてこれはイエス様の使命に関して書かれていることですが、このことは私達クリスチャンにもいえます。福音を伝えていくことは、クリスチャン全員に与えられている使命なのです。イエス様は、悪霊追い出し、いやし、福音を伝える、という3つのポイントで宣教を進めていかれたことを覚えて頂きたいと思います。
 イザヤ書61章はキリストによって実現しました。神様が語られたことは必ず成就します。ですから皆さんに語られている言葉は必ず成就します。中心は聖書であり、吟味が必要ですが、神様からの言葉ならどんなに不可能に見えても、時間がかかったとしても必ず成就します。神様の言葉に信頼しておいてください。
 22節〜、人々はイエス様の恵みの言葉に驚き、ほめたたえましたが、次の瞬間、「この人はヨセフの子ではないか」と、急に現実に戻り、不信仰になっています。ナザレはイエス様が小さい頃から育ってきた町なので、イエス様の家族も皆が知っていたのです。このことは私達のクリスチャン生活や働きを進める中においても起こってきますので、注意しておかないといけません。私達は神様の言葉を受け、多くの祝福を受けますが、そのあと不信仰になってしまうことがあります。この世においてはいろいろな誘惑があります。どこを見ているか、どの土台に立っているかが重要です。
見るべきところ、神様の言葉にしっかりと立っておいてください。平行箇所でマルコ6章1〜6節を見ますと、イエス様は不信仰のゆえに多くのことをできなかった、とあります。不信仰は神様の働きをとどめてしまいます。イエス様は彼らの不信仰に驚かれたとあります。イエス様が驚かれたのは、百人隊長の信仰と、この不信仰に驚かれました。皆さんは信仰の方でイエス様に驚かれて頂きたいと思います。また信仰は徹底して使ってください。信仰の対応とは、悔い改めることがあれば悔い改め、感謝をし、祈り、従い、信仰の告白をするのです。皆さんが信仰を使うなら、驚くほどの神様のわざが皆さんを通して現れます。今、特別な時代にいる私達一人一人に神様は大きな計画を持っています。私達は信仰を用いる必要があるということ、その中で神様の力を体験するということを覚えて頂きたいと思います。
 25節〜、旧約時代のことを言っていますが、イスラエルにはたくさんらい病人がいたのに、きよめられたのは異邦人のナアマンだったということなどを通して、イエス様は福音の伝わりのことを示唆しています。イエス様は十字架にかかられて使命をまっとうしましたが、ユダヤ人はこの福音を拒みました。その結果救いは異邦人に及んだということを言っています。28節〜、人々は怒ってイエスを町の外に追い出し〜、とありますが、ステパノも同じようにして石打ちで殉教しましたが、イエス様の時はまだ来ていませんでした。イエス様が十字架にかかられたのはまだこのあとのことでした。(文責 斉藤)

講解13    2001.11.25
ルカ4章31〜44節
 イエス様は、カペナウムに行かれ、安息日ごとに会堂(シナゴーグ)で教えられま した。そして、人々は新しい教えに驚きました。これは、律法から福音(信仰)とい う、新しく素晴らしい教えです。そしてイエス・キリストの言葉には、特別な権威、 特別な響き、神の力がありました。 
 神様のわざが始まり、悪霊の追い出しがなされました。悪霊は存在し、全ての病い ではありませんが、病いなどで働きかけてきます。イエス様は、悪霊を直接追い出し ました。イエス・キリストに権威があるのです。私たちも悪霊に対応するときに引い てはいけません。私たちに権威があるわけではありませんが、イエス・キリストの御 名に権威があるので、御名によって対応するのです。イエス・キリストを信じる者は、 御名によって対応することができるのです。
 イエス様は、ペテロの家に行かれました。そこではペテロのしゅうとめが熱で苦し んでいました。この熱の原因は悪霊でした。そしてイエス様が悪霊に対応したとき、 一瞬で熱が引いたのです。霊的なことが原因で病いが起こるということがあり、その 場合は霊的な対応が必要です。このときイエス様は、病いがいやされなさいと言われ たのではなく、熱をしかりつけています。これは悪霊に対して対応しているのです。 病いには病いに対する対応を取り、悪霊には悪霊に対する対応を取ることが重要です。
 イエス様を通して現されるわざを見て、たくさんの人たちが集まってきました。そ して、イエス様は人々をいやされ、そのいやされたことが、神の福音の働きと大きな 関係を持ちました。これから、リバイバルの働きが始まり、いやしのわざが顕著になっ て、たくさんの人たちがいやされてきます。マルコの福音書には、「みことばを確か なものとされた。」と書いてあり、いやしは1つの証しです。そして、中心は救いで す。いやしの祈りをするときに、まず最初に福音を語ってください。救いが重要なポ イントです。使徒行伝を見ると、いやしなどはしるしとして用いられています。あく までも救いに焦点がおかれているのです。 文責 山田(香)

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