講解53 2002.9.8
ルカ16章1〜18節
イエス様は一つの話をされました。管理人が主人の財産を使い込んでいたのがばれてしまったという話です。
管理人は、やめさせられてしまうわけですが、そうすると路頭に迷うから、何かうまい方法はないかと思い、そして、うまい方法を思いつきました。それは、債務者にいくら借金しているかを聞き、「百バテ。」と言われると、「いや、五十でいい。」と言うのです。そうすると、債務者は喜び、その管理人に好意をもつわけです。こういうふうに配慮してあげると、借金をまけてもらった人が、管理人に好意をもって、家に迎え入れてくれるだろうと思ったわけです。管理人は、二重に悪いことをしているわけですが、彼が熱心に自分の生き残りのために、徹底して考え、何かをやったように、熱心さをもって、神のことをやりなさいということをこの中で言っています。
さらに、10節で「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」と言っています。これは霊的な原則ですから、具体的に成就します。これは小さいことをちゃんとやる人は、大きいことを任せられてもちゃんとやるので、神が大きな働きを委ねて下さるということです。
11節では、「不正の富」、つまり、この世の富、お金のことに忠実ならば、「まことの富」である神の恵みの働きを委ねて下さると、言っています。お金に関しては不正をしないできちんと取り扱うということは、霊的な事柄と関係があります。12節では、他人のものに忠実ならば私達のものを待たせて下さるということを言っています。これらは霊的な原則なので、しっかりと握るということは、非常に重要な事柄です。そして、13節では、神と富(お金)の両方に同時に仕えることはできない、神を中心としてお金を忠実に取り扱いなさいといっています。神を第一にして歩んでいく時に、正しい対応をとることになるということを、この中でいっていることをどうぞ覚えておいて下さい。
講解54 2002.9.15
ルカ16章14〜31節
パリサイ人は、実は神を知りませんでした。しかし宗教的な対応をしていたので律法的でした。彼らは、神を第一にせず、人の前に行動していました。主が私たちに言っておられるのは違います。私たちには理解できないことがたくさんあります。しかし私たちが、神からの思い、導きの中を歩んでいくということには重要な意味合いがあるのです。
19節以降は、金持ちとラザロのたとえです。聖書中、実名が出てくる箇所は本当なので、これは実際に起こったことではないかと言われています。
ここでは、ハデス(よみ)の事柄が出てきます。金持ちは、生きているときに神様のことを信じていなかったので、ハデスに行って裁かれており、ラザロの方は、アブラハムのふところにいる、ということが書かれています。
アブラハムのふところというのも、聖書的にいうと、実はハデスになります。
ハデスは2つに分かれており、1つは、アブラハムのふところと言われるパラダイス(ちなみに、アブラハムのふところに行った人がゲヘナに落ちることはありません)。そしてもう1つは、裁かれる場所(地獄とも訳す)です。このハデスの地獄の方に行ったら、そのままゲヘナに行くのかどうかということに関しては、議論があります。死者の救いに関しては、聖書的にははっきり分かりません。
ハデスは事実上の地獄ではありません。地獄は、ゲヘナ(火の池)と言います。ゲヘナには現在は誰も入っておらず、一番最初にゲヘナに入るのは、反キリストと偽キリストです(黙示録19:20)。そして千年王国の後に、いのちの書に名のしるされていない者は、みな入ります。(黙示録20:15)
では私たちは、どうすればパラダイスに行けるのでしょうか?それは、私たちが罪人であることを認め、イエス様を信じるだけでよいのです。イエス・キリストが十字架にかかった時に、2人の強盗も一緒に十字架にかけられました。最初その強盗の2人は、イエス様のことをあざけっていましたが、やがて1人の方が気がつきました。そして、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と、イエス様に言います。それに対し、主は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。この強盗は何もしていません。十字架にかかった時に、イエス様が特別な方、神の子であると分かっただけです。そして、それを信じただけです。私たちが罪人であることを認め、イエス様を信じるとき、私たちは、アブラハムのふところ、パラダイスに行くのです。主のわざ、恵みは素晴らしいものです。
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