神にとって不可能なことはひとつもありません

 

<イーラムへ>

 

  さてアメリカのロチェスターでは住まいも必要なものもすべて用意されていました。到着したばかりなのに何のわずらわしい手続きもいらないことは本当に感謝でした。それで早速教会探しを始めましたがイーラムが御心だったのでそちらに導かれました。驚いたことに、教会と神学校、ミッションまであって神学校の聴講ができる道も開かれました。 ちょうどその頃ビリーグラハムクルセードが行なわれていたので行ったのですが、主人はビリーグラハム氏のメッセージにはまったく何の興味もないようでした。しかしそこで自分の目を疑うような光景を目の当たりにしてしまうのです。それは会社の研究所のトップで自分もよく知っているクリスチャンのドクターの方が大きなゴミ袋をもって会場のゴミ拾いの奉仕をされていたことです。それも本当に楽しそうでした。私たちを見つけると本当に喜んでくださいました。主人は会社であんなに偉い人が何でゴミ拾いなんかをしているのだろうとかなり驚いている様子でしたが、何か心に響いたようでした。

 

<クリスチャンとの交わり>

 

  さて主人は新しい環境での仕事をたいへんエンジョイしていました。私にとってうれかったのは研究所の中にもたくさんのクリスチャンの方がおられて主人の側にもクリスチャンの友だちが与えられたことです。 私はいつも礼拝と神学校が楽しみでした。主人は教会まで送ってはくれるのですが、決して中に入ろうとはしませんでした。しかしたくさんの友だちや知り合いが与えられましたので主人もだんだんとクリスチャンと接する機会が多くなってきました。そしてピクニックや食事会などによく誘われましたのでお祭り好きな主人はそんな集まりには喜んで出かけていました。 あるピクニックの時、主人の知り合いで研究所の若いクリスチャンの方も来ておられて交わりの中でその方が、「なぜπという数が存在すると思うか」と主人に聞いてこられたそうですが、主人はπを計算で出すことはできても存在の理由に関しては何も答えられなかったと言っていました。ずっと後になってわかったのですがそのときから主人は創造論や神の存在が気になり始めたのだそうです。神さまはすでに具体的に働き始めておられたのです。目で見えることや証明できることしか信じない主人に神さまはユニークな方法で触れてくださったのです。

 

<再び預言での確認と確信>

 

  年が明けて1月1日に礼拝がありました。賛美のなかで前夜の教会主宰のあるレストランでの集会と食事会に主人も一緒に出席してくれたことなどを感謝しながら主と交わっていると、だれかに肩をたたかれました。振り向くと、さっきまで講壇のところにおられた牧師が立っておられました。そして「あなたのご主人に今朝預言が与えられたのでお伝えします」と言って語られた内容は "He will be saved and he will be a pillar of Japanese church." というものでした。前半の「救われる」という部分はすでに与えられている約束の再度の確認となり神さまに感謝しました。後半の「日本の教会の柱となる」という部分は予告預言なので感謝しつつ頭の中に置きました。しかし再び預言を通して確信が与えられたのは大きな励みでした。約束はあっても現実に目を留めるとがっかりしたり不信仰になったりすることがよくあったからです。 それから約1カ月後の礼拝でヨハネ4章35―37節から刈り取りのメッセージが語られました。メッセージを聞きつつ、なぜかわかりませんが、主人はここ(イーラム)で絶対に救われる! という強い確信が与えられました。 しかし当の主人はクリスチャンの友だちや教会の人とはよい関係にあったのですが、自分がイエスさまを信じるという気持ちはまったくない様子でした。

 

<断食と霊の戦いの祈り>

 

  そんな中であと半年くらいで日本に帰るという頃になって、毎日断食して祈るように導かれました。困ったのは、主人は食事を抜くということは体に悪いことで毎日3回きちんとごはんを食べなければ病気になると考えているような人だったことです。それで断食していることが主人に絶対にわからないようにと真剣に祈りました。そうすると知恵が与えられお昼を抜いて祈ることにしました。(この時痩せてしまうと主人に見つかるので、痩せないようにとも祈りましたが、あとになってこれは祈らない方がよかったかナとも思いました)。 また断食の祈りの中で霊の縛りをしていくように導かれました。最初は何を縛っていいのかわからないので思いつくままにありとあらゆる霊の名前をあげて徹底的に縛りの祈りをしていきました。そのうちに主人の4代前が京都の平野神社の宮司をしていたことや、祖父が主人の名前を「正道」とつけるとき孟子の文献の中からつけたということがわかってきましたので、祈りは白熱化していきました。毎日毎日祈っていく中で神さまが縛るべき霊をだんだんと絞り込んでくださっているのがわかりました。すると祈りが楽しくて仕方がないというようになってきました。

 

<告白の祈り>

 

  さて帰国も半月後に迫ったある日曜の礼拝の後に副牧師の方が主人に改めてイエスさまをお迎えしたらどうですかと勧めてくださいました。なんとか救われてほしいと思いつつも、どうせまた笑ってごまかすのだろうと思っていました。ところが、なぜか素直に話を聞いて告白の祈りをすることに同意していました。そして副牧師のあとについて一句一句真剣に祈っていたのです! ハレルヤ! 神さまは約束を果たしてくださったのです! 私の時にではなく、神さまの時に! 私が自分の力で主人を説得しようとしても絶対に無理だったのですが、神さまが触れてくださったときに確かに神さまが主人を救いに導いてくださったのです。深い喜びが私の内にこみ上げてきました。一緒に祈ってきてくださった教会の方々も本当に喜んでくださいました。 祈り終わった後の主人の顔は本当に晴れやかでした。 神にとって不可能なことはひとつもありません。すべての栄光が愛する主イエス・キリストにありますように。 (おわり)

ルツ弓野

 

 

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