愛が冷める時だからこそ見よ私はすべてを新しくする。
家族の土台
かつて日本の家族には、とても強い絆があったように思います。家長である父親の絶対的とも思える父権が健在でした。もちろん、その時の父権が良かった、正しかったと言っているわけではありません。けれども確かにかつての日本には、家族と呼ばれるものがありました。その形が本当に良かったかどうかは、また別の問題として。 そのころの日本の家族は握り飯に例えられます。ひと粒づつを離そうとしても離せない。握り飯は一つの固まりなのです。ひと粒づつ食べると言うことはしません。それが日本の家族の象徴のようになつていました。もう今は昔で懐かしいようなお話になってしまいましたが。 一方、アメリカはというと、これはドライライスと言われたものです。くっつけようとしてもくっつけれない。ひと粒づつがバラバラになっている。これはともに少し極端に言っているとは思いますが、確かにそれぞれの特徴をうまく言い当てているように思えます。 しかし戦後、日本はアメリカの文化をすごい勢いで吸収していく中で、家族関係に関しても大きく変化してきたように思えます。本来、アメリカには民主主義や個人主義と言う前に、聖書に書かれている絶対なる父なる神を土台としたキリストへの信仰を中心としたすばらしい家族関係がありました。 ところが、その土台である聖書とキリストを抜きにして、私たち日本人は民主主義の中で培われた個人主義を、ただ真似たばっかりに、多くの良きものを失ったような気がします。もちろん、日本はアメリカから多くの良い影響もいただきましたが。残念ながら家族に関しては、マイナスになってしまっているような気がします。それはアメリカが悪いのではありません。聖書の土台とキリストへの信仰を、日本が今までは受け取らなかったことが大きな問題であり、失敗の原因だつたのです。その結果、今多くの家庭が崩壊し、家族の中での愛は冷めてきています。 もし今、私たちが、この聖書に立ち返り、聖書に書かれている父なる神の愛と十字架で示されたキリストの愛を私たちの家族の土台に据えていくならば、必ず、主の恵みと祝福が私たちの家族の中に現れてくることでしょう。 私のまだ短い十三年ばかりの牧師としての経験の中でさえ、何と多くの家庭がサタンの餌食とされているのを見せられたことでしょう。主の愛と憐れみを知らないばかりに、罪の泥沼の中で、夫婦が、親子が、そして家族が、壊され破壊されているのを見せられたことでしょう。正直に言って私は聖なる怒りを覚えています。私たちの大切な神様が与えてくださつた家庭を攻撃し破壊しようとするサタンに対して。 しかし同時に、もうどうしようもないと思えるような状況の中から、主の十字架の赦しと愛によって和解へと導かれていく奇跡的な恵みを何度見たことでしょう。家族の糸がほつれて混乱しきってしまい、もうどうしようもないようになってしまっていたのにもかかわらず、主の復活の力によって奇跡的に回復していくのを何度も見てきました。神様には不可能はないのです。決して不可能など゛ないのです。主は御身体なる教会を通して私たちの家族を必ず回復してくださるお方なのです。 その証しを交えながら、聖書から家族について学んでいきたいと願っています。聖書はきれいごとも理想論も語ってはいません。神に用いられた器たちが家庭の中でどんなに格闘し失敗していたかを正直に書いています。そして彼らに対する神の憐れみがどのように彼らの家庭におよび彼らの家族が祝福を受けていったかを書いています。 それをこれからともに聖書から見ていきましょう。きっとこれを読み進むうちに、あなたがもし今、父として、母として、限界を感じておられるならば、神の愛と憐れみに希望を見い出されることでしょう。神の憐れみは尽きず、もうダメだと思われるその下に、主の手は届くからです。
十字架による回復
それでは一つの証しをいたしましょう。これは私が仕えている教会に今、家族で集われている家庭の中で起こった実際にあったお話しです。いつか詳しく書きたいと思いますが、今回は簡単に書いてみましょう。 その離婚届を見たとたん、彼女の中に怒りが込み上げてきました。今まで自分も離婚しようかと考えたことが何度もありました。けれども、まさか夫が同じように思っているなどとは思ってもいませんでした。ましてその離婚届の子どもの親権者が夫になっているのを見た時、彼女の怒りは頂点に達しました。 「私がこの子たちを育ててきたのよ。あの人に子どもたちが育てられるわけなどない。」 その時、彼女はいつも送られていたお姉さんの手紙を開き、いっしょに送られてきたテープを聞いたのです。それはイエス・キリストの十字架の話しでした。今まで姉から送られてきた手紙も本も疎ましいだけでした。でもこの時は違ったのです。聖霊が働かれました。十字架の話しを聞く彼女の目に涙があふれてきました。彼女には分かりました。私がキリストを十字架につけたのだ。確かに私も群衆のひとりになって群衆といっしょにキリストに向かって呪いの言葉を浴びせていたと。 彼女は救われたのです。 この家族は崩壊寸前でした。あとは彼女がサインさえすればこの夫婦は離婚し、二人の子どもたちの心には深い傷が残されたことでしょう。そして今与えられている三人目の子どもは決して地上には生まれて来なかったことでょう。 神様は生きておられます。 彼女の夫がイエス様を信じるまで、それから数年かかりました。その前に彼女が心から夫を愛し尊敬出来るようになるまでにも、実はしばらくかかりました。神様は彼女の歩みに合わせて歩いてくださいました。そして彼女は心から夫を愛せるようになり、夫を尊敬し慕えるようになつたのです。 御主人が救われた時、この夫妻の長女と教会の入り口で私はすれ違いました。今は高校生となつているこの子は、当時まだ小学生の低学年で、二人が喧嘩をし罵り合っていた時に、いつも隠れて泣いて見ていた子でした。 「良かったね。お父さんが救われて。」そう私が言うと、この子は本当に嬉しそうな笑顔を見せて、こう言ったのです。「うん。でもお母さんが一番喜んでいるよ。」 この時、私は牧師になって良かったなと思いました。私は何をしたわけでもない、いや全く何もしてはいない。でも神様は生きておられ、この子の悲しみと涙をほおってはおかれなかったのです。 このようなすばらしい神様のみわざをいろんなところで見てきました。もちろん時間と言う忍耐を通らなければならない時があります。けれども主の時が来る時に、主はすばらしい奇跡を恵みをもって現してくださるのです。 神様にはえこひいきは決してありません。どんな人にもどのような家族にも愛と祝福を注ごうとされているのだと言うことを、私は今までの歩みの中で見せていただきました。そのことをこのシリーズの中で証ししていきたいと思っています。
見よ。わたしは、すべてを新しくする。
わたしは主の恵みで2001年をイスラエルで迎えることが出来ました。神様が特別に愛された都、エルサレムで、2000年12月31日に20世紀の最後の礼拝を行い、2001年の元旦に新年礼拝を持つことが出来ました。しかも主が選び与えて下さった愛する妻とともに礼拝することが出来たのです。それはわたしにとつては特別な恵みであり、祝福でした。 私がそこで礼拝を通して主に語られた御言葉は、黙示録の21章5節の「見よ。わたしはすべてを新しくする。」でした。この御言葉が与えられたことは私にとって、とても大きな祝福でした。 今まで、私にも妻にもいろんなことがありました。きつとこれを読んでおられるあなたの人生にも、あなたの家庭の中にも様々なことが許されたことと思います。しかし神様は、今までのそのすべてのことを決して無駄にすることなく、益としてくださり、私たちをさなぎから蝶へと孵化させてくださるのです。 それは今までの人生の否定では決してありません。むしろ今までの歩みの中で受けた喜びはもちろんのこと、悲しみや痛み、そして呪いとさえ思いたくなるような苦しみまでも神様がその恵みの御手の中で益となるように用いてくださつて、全く新しい者へと私たちを変えてくださるということなのです。これほどダイナミックな人生があるでしょうか。 また、とんでもない失敗をしてしまって、もうダメだと落胆失望して行き詰まっていた人にも神様は希望を語られるのです。「見よ。わたしはすべてを新しくする。」と。これほどの希望に満ちた言葉を語られる方が他におられるでしょうか。しかも主は語られたことを、語られた通りに成してくださるのです。あたなとわたしの人生の中で起こったすべての失敗を祝福に変え、あなたとわたしの家庭の中に許された試練を通して、私たちの家族の中に十字架の愛を土台とした祝福をあふれさせてくださるのです。 これほど希望に満ちた歩みをすることの出来る人が果たしているでしょうか。主を信じて歩む者には、このような祝福が待っているのです。
神は成してくださる。
この2001年、21世紀において主があなたと私の人生の中に、そしてあなたと私の愛する家族のうちに、そしてもしかしたら痛み苦しんでいるかもしれない家族や親族の人々のうちに神様は回復を与え、すべてのことを益にして、全く新しい主にある家族を見させてくださるのです。 あなたはそのことを信じられますか。私は信じます。私の家族のうちに。そしてこれを読まれているあなたの家族のうちに、必ず主がすばらしいことをなして、今までにもまして新しいことをしてくださることを。 そのために主がこの連載を用いてくださるようにと祈ります。 主があなたとあなたの家族のうちに成そうとされているすばらしい働きのために、主が豊かに用いてあなたに語り触れてくださることを期待しています。 主はきっと「見よ。わたしはすべてを新しくする。」 と語られた御言葉の真実を見せてくださることでしょう。 わたしにもあなたにも。 そして私とあなたの家族と親族の中にも。
イザヤ木原真(神のしもべ長崎教会牧師)
−み声新聞−