主はどのような災いも祝福に変えられる
私たちの人生には、どうしてこんなことが許されるのだろうかと思えるようなことや、これさえなければと思いたくなるようなことが必ずあるものです。ふつうそれを、人は不幸な出来事と呼びます。そしてそれは私たちの人生に影を落とし、多くの場合、家族をも巻き込んで、その悲しみや苦しみは増幅されてしまいます。もちろん、家族によってはその悲しみが半減され、家族でともに戦うことによって苦しみが和らいで、ますます家族の絆が強くなることもあります。そのような家族は祝福された家族といえるでしょう。 私たちが主を信じているとき、思いもかけずに、どんな不幸と思えることや災いが私たちの人生に降りかかって来たとしても、そのすべては必ず益になります。しかもその人だけではなく、家族にまでそれは祝福をもたらすことになるのです。そのことが本当に分かってくると、イエス様を信じていることのすばらしさに感動するようになります。またクリスチャンであることの喜びに私たちは満ち溢れていくことでしよう。
私のあだ名は「かぐや姫」
今回は私自身のことについて少し書いてみたいと思います。私は3人兄弟の末っ子として生まれました。うえ2人は姉で、両親にとっては待ち望んだ始めての男の子だったのです。ですから、とてもとても大事にされて育ちました。はっきりというと思い切り甘やかされてしまったと言うほうが正確でしょう。特に母親は、目が悪かったこともあり、私を溺愛したところがありました。私は我儘なとても内弁慶な男の子として育ちました。小さい時していた遊びというのは、姉といっしょにままごとやお人形の遊びというような感じで、ひ弱な子だったようです。 小学一・二年生のとき、担任の先生にあだ名をつけられてしまいました。「かぐや姫」と言うのです。満月の夜が近づくと泣き出すかぐや姫のように、給食が近づくと好き嫌いが多くて顔中に畑を作っていた私は、しくしくと泣き出すのです。それで先生に「かぐや姫」と付けられてしまったのです。全く今からは考えられないことですが。
ひとり放り出された私
そんな私に大きな転機がやってきたのです。いや変わらざるを得ない状況が許されたのです。私が小学三年生だったとき、母親といっしょにまだ甘えん坊の私は寝ていました。すると突然、母親が吐血したのです。びっくりしました。実は、母は、結核をわずらっていたのでした。結核は法定伝染病です。母は隔離病棟に入院しなければならなくなりました。私は突然母親べったりの生活から、一人放り出されたのです。 私は最初学校から帰ってくるとしくしくと泣いていました。なんとも情けない少年でした。しかし泣いたからといってどうなるものでもありません。私は外に出て友達と遊ぶようになりました。そのとき覚えたのが野球だったのです。 幸い運動神経は悪くなかったので、それなりにうまくなりました。しかも母がいなくてさびしい思いをしている私のことを父が憐れに思ってくれたのでしょう。グローブやバットはもとより、キャッチャーミットやキャッチャーマスク、プロテクターにファーストミット、次から次へと野球道具を買ってくれました。そのころは今のようにみんな道具をまだもっていたわけではなかったので、道具をもっていた私は、野球をするときいつも中心になれたのです。そしていろんなチームを作って夢中で野球をするようになりました。友達と取っ組み合いをして喧嘩もしました。いつのまにかたくましい男の子に私は変わっていったのです。少し大げさな言い方をすれば、野球が私を男にしてくれたのです。だから私は今でも野球が大好きなのです。 母親べったりではっきりと言えばマザコンであった私を、主は母の結核での入院という人間的にはとても悲しい事件を通して、母親から自立した一人の人格として成長させてくださったのでした。
ただ怖かった父の変化
母の病気は単に母から私を自立させただけではなく、父との関係も健全なものへと変えていきました。もともと父と私は仲が悪かったわけではありません。それどころか一人息子の私に父はとても期待していて、いつも「お前はやれば出来る」と希望を語り続けてくれました。 ただ父はとてもとても几帳面で、私がまだ小さいころは神経質なところがありました。たとえば父が帰ってきて玄関の靴が並んでないと、帰ってくるなり雷が落ちます。しかも父は怒ると異常なぐらい怖くて手をあげることも時々ありました。 ですから、父が大声で私の名前を「マコト」と呼ぶとその瞬間私は凍りついたようになって、まるで蛇ににらまれたかえるのように身動きできなくなるのです。そして父と目が合うと殴られる前に目から涙が出てきてぼろぼろ泣き出すという有様でした。 ところが父は母が入院してからというもの全く変わってしまったのです。先ほども書きましたように、私にいろいろと野球の用具を買ってくれました。あれほど母が倒れるまで、母に倹約と節約をさせていたのにです。そして野球はうまくない父が一生懸命私のキャッチボールの相手をしてくれました。父に対して持っていた「ただ怖い」というイメージがこのときに一変してしまいました。 私は父といろいろ話すようになり、父のことを幼いなりに理解するようになり、尊敬するようになったのです。これは私にとってとても大きなことだったのです。
すべてを益にしてくださる神様
また母の入院は私たちの家族の信仰生活にとっても実に大きなターニングポイントになりました。母が倒れたころというのは、ちようど日本は高度経済成長時代で、父は何とかしてマイホームを持ちたいと毎日懸命に働いていたようでした。 それで母に対しても、とにかく倹約をさせて、無駄遣いはないかとよくチェックしていたようです。毎日倹約、節約の日々を過ごしていたようでした。しかも、父は仕事のかきいれどきである日曜日は、しばしば教会を休んでいました。母はそのことがとても辛くて祈っていたようです。そして母は結核になって倒れてしまったのです。入院生活は一年に及びました。しかし試練と困難は、クリスチャンを強くします。家族を一つにしてくれます。 母が入院をすることになって父は、全く考えを変えてしまいました。もともと中途半端は出来ない人なので、今度は子どもたちに、とにかく栄養のある良いものを食べさせるようになりました。あるときなど毎日毎日、天ぷらが続いたりしたものです。 信仰生活も日曜日はもちろん、仕事を休んででも教会に行くようになりました。日曜日も朝だけではなく、路傍伝道にも、夜の礼拝にまで残って出るようになりました。そんな父の姿を見て一番喜んでいたのが母でした。私にとっても、このころ幼いなりにいつも父と並んで出ていた夜の礼拝や路傍伝道のことは忘れられない思い出になっています。思い出という以上に、このときの教会での父との経験が今の私の信仰生活の根本にあると思えて仕方ありません。神様は本当に真実な方ですべての事を益としてくださり、祝福に変えてくださるのですね。
困難な中で一つにされたそれは私たち家族
母の入院生活が続いた一年間、それまでの中で私たちの家族の信仰が最も生き生きとしたときでした。母は病院の中では伝道者と呼ばれていました。お医者さんが、落ち込んでいる人やかなり悪い状態の患者さんがいると、母のところに行って話してごらんと言うほどだったのです。父も一週間に必ず一度はお見舞いに行きました。まだ小学生だった子どもたちを連れて毎週毎週病院へ一時間以上かけて行きました。 私たち家族にとって、この一年間は母がいなくて寂しいけれども、実はとても祝福された時だったのです。家族が神様に対する信仰によって強く一つにつなぎ合わされていたからです。この困難はむしろ私たち家族にとっては祝福だったのです。
あなたの家族にも
神様を信じていることのすばらしさは、最も悲しいと思えるようなことが許されたり、こんな不幸なことはないと思えるようなことが家族の中で起こるときに、その悲しみが十字架の愛の中で確かに喜びに変えられ、むしろ不幸と思えるような事柄の中で神様の愛によって家族がひとつに結び合わされていくことでしょう。 あなたの人生の中にも必ず理解できないようなことや悲しみに思えるようなことが許されるときがあります。あなたの家族にとって最も辛いことや不幸としか思えないことが起こってしまうことがあります。 でも、それは神様が下さったもっと強く家族がつなぎ合わされる恵みのときなのです。イエス様の十字架の愛によって、復活された主への信仰の力によって、きっと今にも増して、その困難の中であなたの家族は一つとされていくことでしょう。そしてそれは、あなたにとっても大きな祝福をもたらしていくのです。それは後になればなるほど、はっきりとしてきます。 神様はどこまでも真実な方だからです。
イザヤ木原真(神のしもべ長崎教会牧師)
−み声新聞−