すべての事について感謝する

ペテロ真境名

 

思索や感情ではなく、神のことばに立つ


  いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい、これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
第一テサロニケ5章16~18節

 

 主の御名を心からほめたたえます。神様は私たちを愛しています。イエス・キリストの十字架を信じ、自分が罪人であることを認め、自分の全ての罪を 悔い改めるなら神の赦しを受け、神の子供となるのです。これには例外はありません。これは深い恵みです。ですからどんなに悪い事(罪)をした人でも神の前 に悔い改めるならどんなに重いと思われる罪でも神様は赦して下さり、その瞬間から私たちはあらゆる祝福を神様から受ける事が出来るのです。神様は私たちを とてつもなく愛して下さっています。神様にとって私たちはかけがえのない存在です。イエス・キリストを信じ、神様の愛を受けて下さい。
  私たちを愛しておられる神様はその愛を私たちに具体的に現したいといつも思って下さっています。その愛を受けるポイントが特に18節の「すべての事につい て、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」のみことばです。ここで書いてある感謝しなさいというみこ とばは、すべての事について感謝しなさいという事であります。すべてとは良いことについても悪い事についても感謝しなさいなのです。ですから例えば私の今 日の夕食にステーキが与えられても感謝し、奉仕とかで失敗をして教会のP牧師に叱られても感謝するのです。(もちろん悔い改めるべきことはきちんと悔い改 めることが必要です。)


  感謝することは私たち人間の感情表現のひとつですが、すべてとなると感情表現ではついていけません。良いことについては感謝出来るかもしれませんが、悪い と思われる事について感謝するなんていう感情は私たち人間のうちには湧いてこないからです。ですが、神様のみことばは、すべての事に感謝しなさいと語って います。それでは神様は、理解出来ない事を言って私たちを混乱させたいのでしょうか。そうではありません。神様はあらゆることを通して私たちに祝福を与え ようとされているのです。悪いと思われる事には、ある場合にはサタンの働きであったり、私たちの失敗であったり様々ですが、神様がそれをなされるのではあ りません。しかし、神様は悪い事が起こる事をお許しになられます。それは神様が私たちを愛しておられるからであり 、その事を私たちに具体的に知らせるためなのです。神のみことばは感謝しなさいとあるのです。信仰の対応は感情表現とは別問題です。神様の言葉に立つとは 感情を中心に行うのではなく信仰、つまり神様に言われたことに従うということを中心に行うのです。ですから思索や感情は感謝出来ないと思っていたとして も、その思いではなく、感謝しなさいというみことばに立って対応するというのがポイントです。

 

神の力によって従う

 

 しかしながら私たちの感情というものは弱く脆(もろ)いものです。私たちは感情では、その時に腹立たしかったり、悲しかったり悔しかったり、様々 な思いが強くて感謝しにくいということはあると思います。神様に従う力は私たちの内に備わってはいません。従う力は神から来るのです。神にとって不可能な ことは何一つありません。神様に祈り、求め、より頼むのです。その時に確かに神様は私たちを助け、信仰の歩みへと導いて下さいます。またローマ書8章28 節に、すべてが益になるとあるように、感謝するという神の言葉に立って主に従うことを通して、はっきりとその実(結果)が現されるということを覚えて下さ い。人生におけるマイナスや、困難な事柄の後ろに神様の計画があり、感謝することを通して神様の御業(みわざ)とご栄光が現されるということです。

 

借金、酒、タバコ、ギャンブル、仕事、人間関係の問題解決

 

 私はクリスチャンになる前、特に小さな頃から自分は運が悪いなあと思えるようなことが多々ありました。いつも弟や周りの友人たちばっかり良い事が 起こっていて、私にはなぜ起こらないんだと、周りの人たちにいつも嫉妬心をメラメラさせて眺めていたものでした。食べ物、衣服、お小遣い、いろいろなこと で弟や友人たちと比べて私のほうが全然下なんじゃないかなと思っていました。自分の人生そのものを恨んでいた時期もありました。
  しかし、私はイエス・キリストを信じてクリスチャンになり、感謝するという対応をとり始めてから運が悪いと思っていた状況がどんどん変わっていくのに驚き ました。それは明確でした。神様に、困難にある状況を感謝し、解決を求めた時に、多額の借金完済、お酒、タバコ、ギャンブルからの解放、仕事、人間関係に ついての問題解決がなされ、また過去にさかのぼっても父親との確執から和解が与えられました。さらにこちらでは全く考えておらず、諦めに近かった結婚まで 与えられて、現在私は、牧師として妻と子供二人の家族4人で主に仕えています。友人たちからは、こんないい加減な人間は他にはいない! もっとも家庭とは 無縁な人間が結婚しただなんて考えられないと、いまだに騒がれています。人の思いをはるかに超えた神の御業(みわざ)が起こりました。主の御業(みわざ) は明確なのです。

 

フィリピンチームに参加して

 

 さて8月14日~8月17日、18日にかけてフィリピンチームが遣わされました。その派遣に恵みによって参加させていただきました。皆さんのとり なしのお祈りを心からありがとうございます。今回、1989年8月15日に起こった殉教事件から20周年を記念して行われる集会をメインに、主によって導 かれた派遣でありました。15日午後に、事件が起こった元刑務所跡地で、現在は警察と軍の施設になっている場所で聖会が持たれました。当初、現地の教会の エディー牧師は、場所を借りるのに何度も断られているのでお祈り下さいと祈りのリクエストをしていましたが、主が導かれるなら主が開かれます。集会所は直 前に奇跡的に許可が下り、当時の事件跡地で行うことが出来ました。
  聖会は非常に深い神様のご臨在が現され、賛美グループの賛美がなされ、ギフツもこのときに賛美の奉仕をさせていただきました。20年前の事件に関わった フィリピンの兄弟姉妹、パウロ北野牧師の証しがそれぞれなされました。その後にパウロ秋元牧師の導きで賛美、預言、メッセージの時がもたれました。預言を 通して、この集会と、事件の半年後に事件が起こったその場所で主に感謝をささげ、主の勝利を宣言した集会とは対(つい)であるという事柄が語られました。 また、私たちの地上での歩みは決して天と隔絶されているものではなく、今日の集会は20年前に殉教したジャッキーやジュリエッタたちも知るところで、彼女 らと心は一つであり彼らとともに主をほめたたえ、働きをなしていくとのことが語られました。

 

叔父の召天

 

 私は、天と一つということに関して、その時ふと思うことがありました。2年前ほどのことでした。沖縄に住んでいる叔父が突然死するということが許 されました。私は幼少から学生時代を叔父と共に生活をしていた時期がありました。その叔父は小さな頃から精神の病を抱えており、学校にまともに通う事も出 来ず、いつも自宅に引きこもっていました。そのような叔父を私は恥しながら、とても疎(うと)ましく思い、叔父を軽蔑さえしていました。クリスチャンに なって神様にその事を心から悔い改め、叔父に対しても心から謝罪することが出来ました。それから叔父の病や信仰のために祈っていました。叔父は私の母の弟 なのですが、母から勧めを受け教会に通うようになっていましたが、病のこともあり、信仰はあまりはっきりしていなかったように思います。ですので、救いが はっきりするように祈っていきました。
  そうしましたら、ある時に沖縄で礎の石孤児院活動報告会が行われる事になり、恵みによって参加させてもらえることになりました。その時私にはっきりとある 思いが明確に来ました。それはなにかというと、叔父の召天が近いので祈りなさいとのことでした。あまりに突然でしたし、そんな事は考えたくなかったので、 私の思いから打ち消していました。しかし私が沖縄に数年ぶりに帰ることが決まって、その事は誰にも言っていなかったのですが、叔父から連絡が入り、私に沖 縄に帰って来ないのかと聞いてきました。私はちょうど沖縄に帰るから孤児院の報告会に来ないかと誘いましたら、すぐに行くとのことだったので、私たちは約 10年ぶりに再会することになりました。今思うと神様の御手だと思わされます。その時に叔父とはわずかな時間だったのですが、話すことが出来ました。しか し久しぶりのつかの間の再会を喜んでいましたら、叔父から突拍子もない事を言われました。それは叔父から「自分は死んだら天国に行けるだろうか」という相 談でした。どうしたのかと聞くと、叔父が相談をしていたある方から頭の悪い人は天国に行けないと言われたとのことです。とんでもないことです。これは全く の間違いです。天国に行くのに頭の良し悪し、学力などは関係ありません。私はすかさず、それは間違いで、誰でもイエス・キリストの十字架を信じ自分の罪を 認め、悔い改めるなら救われ、恵みによって永遠の命を受けます。それは自分の能力、努力とは関係ありません。そのことを説明しました。叔父はその時にイエ ス・キリストの十字架を信じる告白をしました。突然死はその半年後のことでした。ですから、私には平安がありました。


  このことを親族に話しましたらノンクリスチャンの叔父の兄弟達は泣いていました。また、ある兄弟は自分も罪人だと言っていました。叔父の親族から何人も連 絡が入りました。叔父を通して親族の救いが現されるようにさらに祈っていきたいと思います。そして叔父との関係もすべてが益となり、私は叔父が召天し、天 国で私のためにとりなし、働きのため祈ってくれていることを確信しています。確かにジャッキー、ジュリエッタらと心はひとつで、ともに神の働きを進めてい くんだなということが深く心に染み入りました。

 

大きく進んでいく福音宣教の働き

 

 さらに集会ではテサロニケ第一5章16~18節の特に18節の「すべての事について感謝しなさい。それがキリスト・イエスにあって神があなたがた に望んでおられることです。」から、殉教事件とその後に許されたすべての事を感謝することが語られました。20年前の事件は、世界的なニュースとなり、 フィリピンの多くの教会、国民、マスコミの批判を強く受け、まさにサタンがわがもの顔で暴れて善良なクリスチャンを血祭りにあげた悲惨な事件として取り上 げられました。しかし、神様の導きに従い、1990年2月4日に、殉教が起こった刑務所のその場所で集会がもたれました。そして、事件は主の許しの中で起 こった事であり、その事を感謝し、その事のゆえに神様をほめたたえました。その後ろに神様のご計画があることを感謝しました。また主の勝利の宣言がなされ ました。それから教会は大きく変わっていきました。殉教事件に関わった教会や兄弟姉妹を神様は強め、さらに献身へと導き、分裂が許されていた教会も逆転の 御業(みわざ)により、多くの教会設立がなされ、今、何ひとつマイナスになっていません。しかし本格的な働きに入るのはこれからであり、マニラを中心とし てフィリピン全土に神様の福音宣教の働きが進んでいくという事柄が語られました。その中でギフツが今回帰りにセブ島で賛美隊として立ったということも大き な意味合いをもっていると思います。


  また、翌日の16日の教会のデボーション箇所(聖書の通読箇所)は、大宣教命令が語られているマタイの福音書28章でした。確かに働きが大きく進んでいくんだなということが強く心に響きました。
  そして、大きく進む神様の働きを担うために、すべてのことに感謝することがキーポイントとなります。困難や問題に対し、感謝の対応、信仰の対応をとるときに、厚い壁が打ち破られ、神様の勝利の御業が現されていきます。
  私たちの人生に神様が計画をもっておられます。私の人生はまさに神様が変えて下さり、思ってもいなかった牧師として立てて下さいました。そしてあらゆる国 に行って福音を語るように導かれています。同じように皆さんにも神様のご計画があるのです。まだ気付いていない方もおられるかもしれません。是非、神様に お祈りすることをお勧め致します。その中で神様にある最善の祝福された人生を歩み、信仰の対応を通して大いなる神の御業(みわざ)を見るということを覚え ていただきたいと思います。
  主の御名を賛美致します。

 


(月刊「雲の間にある虹」2009年10月号に掲載分より転載)