北京で生まれた夫は、敗戦前、父と3人の姉とともに日本に帰って来ました。5歳で母親が病気で亡くなり、自分も体が弱かったため、医者になろうと受験したのですが2度失敗し、それなら病院を建てるために金儲けをしようと、商学部に入学したのが、なんとミッションスクールでした。
ある教授のお別れ講演会で、「破れ! 逃げ! 受け!」というメッセージを聞き、「なるほど自分は破れている。なにかから逃げている。神の愛を受けなければ!」と思い教会に行くようになりました。「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」という御言葉を通して、イエス・キリストの救いを全面的に受け入れ、まもなく献身しました。その後結婚し、長男平太が生まれました。
片田舎の教会へ赴任し、まもなく牧師館に73歳の夫の父親が引っ越してきました。話す声はかすれ、頭も手も震え、ともに長椅子にでも座ろうものならコトコトと小刻みに揺れるのです。父は若いときの信仰を思い起こし、だれよりも熱心に教会に集い、聖書を読むようになりました。
50年間離せなかった煙草を捨て、手のひらいっぱいの薬を捨て、若者と一緒に、♪イエスさまが一番 ♪~と賛美する人気者のおじいちゃんとなり、いつしか震えも止みました。私は慣れない育児に忙しく、気の利かない嫁でしたが、父はいつも静かでニコニコしていました。
ある日のこと、私たちはとなりの会堂で、♪救い得るは愛なり♪~という賛美歌を練習していました。牧師館に帰ってみると、父は動かぬ人となっていたのです。年取った父を放っておいてなにが「愛」か! と怖くなり、ひとしきり泣きました。顔をあげて見るとなんと、父の顔は穏やかで平安に満ちていたのです。
「私は赦された!」主はこの愛なき者を赦し、また父も私を赦してくれている! その顔が何よりの証しでした。「信仰の遺産を子等に残す」とメモを聖書に挟んで、父は永遠の国へと旅立ってゆきました。父亡き後、神さまは長女あおぐを与えてくださいました。
夫は「世界宣教とリバイバル」が口癖でした。私はその意味もわからず、夫は病に倒れているし、なすすべなく会堂でひとりぼんやりしていると、聖書を抱えあちらからこちらから大勢の人々が教会に次から次へと吸い寄せられて来るような光景が目に浮かびました。
「牧会しているのはだれですか?」と私は問いました。すると主は「私だよ!」と。かすかな、しかし確かな声が心に響きました。その後、主は私たちを祈祷院のある教会に導かれました。そこに移り住んで、祈りの訓練を受けるようになりましたが、しばらくして「韓国に行って学んで来るように」との勧めで、夫はひとり韓国に行きました。そこで見たものは、厳寒の中、土間にムシロを敷いて汗だくだくになりながら国家のため、世界のため祈っている聖徒の姿でした。
祈り終えた聖徒たちの顔はあまりに輝き、日本人の自分に神のしもべとして丁重に愛をもって仕えてくださったそうです。このキリストの愛に触れて、「私にもあの祈りをください!」と祈った夫に、神さまは40日の断食祈祷をするように導かれました。
30日目、夫を導いてくださった牧師が台湾宣教から帰国されました。今後の働きのために祈っていた私は、お土産にいただいた台湾全土の地図を開いた時、大粒の涙がハラハラとこぼれ「主がお行きになられたいところは、ここだったのですね!」と思わず跪きました。夫も同じ導きを感じていたことを後で知りました。
新米牧師の開拓伝道は困難を極め、神のみ心もわからず、状況に振り回され枯れ骨のようになっていた私たちをここまで導き、「愛を受けなさい。祈りなさい。そして、使命に目覚めなさい!」 と語りかけ、聖霊の息吹を注いでくださった主の愛! 全世界に福音を伝える宣教の業のために、私たちを用いようとして主の訓練は続きました。
ある晩、車に子どもを乗せ、急いで教会の祈祷会に行こうとした時、「ぎゃー」と叫び声! 長女の指が車のドアに挟まれていました。急いでドアを開け、挟まれた指を両手で覆い死にものぐるいに祈りました……。「大丈夫!」という思いが与えられ、実際何の傷もなく長女も「もう痛くない」と言うのです。
主は生きて働いておられ、十字架を見上げて祈る祈りに、答えてくださる愛の神さまであるということをいくつも体験し、幼いながらふたりの子どもは、イエスさまを救い主と信じ、洗礼を受けました。そして、長男が6歳、長女が4歳の秋、私たちは神の家族として台湾の地に赴いたのです。カバンひとつを持って……。