27年前、初めて台湾宣教に遣わされ、飛行機の中から眼下に広がる台湾を見たとき、夫はなんとも言えない懐かしさを覚え、主の愛で胸が熱くなったそうです。主は私たちのために台南の海辺の一軒家を用意してくださいました。近くに住むお兄さんが電線を引いてくれ、電気も灯るようになりました。一応生活できるように整えられ、台湾生活第一日目が終わろうとしているとき、枕を持って来てくださった方がありました。「人の子には枕するところもありません」という御言葉で、カバンひとつ持って渡台してきた私たちに対して、主のご配慮の深さには驚かされました。
ある日、集会をすることになった一室を見に行って帰ると、体中がかゆくてたまりません。長い間使っていなかった部屋だったのでダニでもいたのでしょうか。みんな水で体を洗ったのですが、いっこうにかゆみがとれないばかりか、増々広がってきました。薬もないし、病院もわかりません。祈っていると6歳の長男が、「イエスさまがかゆいのをとってくださるって!」と顔を輝かせて言うのです。それから、「病気も死もない」「行く先々で聖霊充満になる」「世の終わりまで、イエスさまと一緒だって!」……と次々に語るのです。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子やむすめは預言し……」と書いてあるとおり、次々に、しるしと不思議と奇跡の主の御業に与かることができ、背後のとりなしの祈りを感謝しました。
神さまは、私たちの家族にさらに祝福を与えてくださいました。台湾生の3人の子どもです。子どもの名前は、主が思いのうちに与えてくださり、ダビデ、さんび、カナンという名を用意して誕生を待ちました。
交通事故で足を切断した方が、福音宣教の足として100CCの新車を捧げてくださったのです。夫はそれに載って免許を取りに行ったという、日本では考えられない交通事情でした。伝道に行くときはいつもそのオートバイに乗っていましたが、ハンドルを握った夫の両手の中に長男、長女を座らせ、後ろに横乗りする私と夫の間に次男、次女を抱え込むように座わらせ、私のお腹の中にはまだ見ぬ赤ちゃんが! 車が走ると自動的に鳴り出すカーステレオのように、オートバイに乗るとみんなで賛美が始まります。主の平安が我家を包み、子どもの賛美の声ははちきれそうでした。一度も事故に遭ったことがありませんが、主の憐れみと守りはなんと大きかったことでしょう!
上のふたりが小学校上級生になったとき、日本語がうまく喋れないので帰国させ、日本語教育をさせることになりました。ひとりは熊本、ひとりは福岡で預かっていただきましたが、台湾に残された私たちは日本の子どものことが気になって、寝られない日が続きました。屋上に上がり、始めは我が子を思うて主の前に跪いていたのですが、いつしか台湾の滅び行く魂のために、リバイバルのために我を忘れて祈らされていたのに気がつきました。
魚屋のおばさんが眼病のいやしを求めて礼拝にやって来たのです。十字架を仰いでともに祈ったら、長年悩まされていたしつこい眼病が癒されました。彼女は、次の礼拝からいろいろな人を連れて来るようになりました。魚の卸しをしているひとりの婦人はうつ病であり、またひどい皮膚病でした。
彼女は莫大な借金を抱え死にたいと言っていたのに、主に触れられイエスさまがすべての重荷を負ってくださったことを信じ解放されました。気がつくと皮膚病もいやされていたのです。彼女のご主人は有名な偶像礼拝の指導者でした。礼拝に奥さんをオートバイに乗せて来、すぐ帰っていたのですが、そのうち集会中、外でメッセージを聞いていたそうです。生活の苦しみはピークに達し、主の御手は確実に彼に迫り、彼はいつしか中に入りみんなと同じように礼拝し賛美していたのです。
洗礼式は、教会員が一つひとつレンガを屋上に運び、みんなで作った洗礼槽! それはみんなにとっても喜びの瞬間でした。彼の大きな家の5階は偶像の祭壇でいっぱいでしたが、全部処分してくださいと頼まれ、夫は台湾の牧師とともにトラックいっぱいの偶像を棄てに行きました。
このような戦いの中、忙しい毎日で早天礼拝がいい加減になっていました。夜中、扇風機が燃えるという火災に遭い、危うく焼死という状態の中から神さまが特別に守ってくださったということがわかり、悔い改め、再び早天礼拝を始めました。
主は、愛のお方であられ、同時に義なるお方であられることを生活の中で体験させられ、たとえどんな御業に与かろうと、それは我々の功労ではなく、主の力の現われであること、私たちの誇りはただただ主の十字架であることを深く知らされました。このような神さまの取り扱いの中で7歳のダビデ、5歳のさんび、4歳のカナンの台湾生の3人は、十字架にかかられたイエスさまに祈ることを覚え、幼いながら信仰を持って、日本に帰ってきて間もなく、洗礼を受け救われたのです。