大正生まれの元気はつらつおじいちゃん!

 大正生まれのわたしの祖父は80歳を超えてもなお、元気ではつらつとしていて、お友達と一緒に実家の岡山県から青森県の辺りまで自動車を運転し、旅を楽しんだり、とても活動的な人でした。 

 

 84歳の時、行った病院で肺にがんが見つかり、それから入退院を繰り返すようになりましたが、その1年後、わたしの結婚式の時にはまだ元気で出席でき、その後も、オープンしたての話題のレストランなどに食事に行ったりして、病状が悪化することもなく、相変わらず元気に過ごしていました。

 

 

「わしの葬式は仏教式で」

 わたしの母は高校生のころから教会に行き、救われておりましたが、祖父はキリスト教には反発心があり、ずっとかたくなでした。  祖父は長女であるわたしの母に、「お前たちはキリスト教だから、わしの葬式は親せきに仏教式でやってもらうよう頼んだから…」などと言っていました。

 

   それからさらに1年後、再び入院したので、主人と土曜日にお見舞いに行こうということになりました。その1週間ほど前、祖父は「おい。ウナギ、食いに行かんか!!」とわたしの家まで来て、うな重を食べに出掛けたほどだったので、まだまだ長生きしそう、とその時は思っていたのです。さて、準備し、いざ出掛けようと立ち上がった時、「手紙を書きなさい」という細い声が…。「神さまかな? 手紙? おじいちゃんに? 何て?」書くべきことがまったく浮かばないまま、取りあえず座り、紙とペンを持ちました。すると、悔い改めが示されてきたのです。

 

「おじいちゃん、いたらない孫でごめんなさい。」

 「おじいちゃん。こんな至らない孫でごめんなさい。おじいちゃんに対しても神さまに対しても、ずっとわたしとわたしたち家族は、本当に罪人でした。だけど、わたしたちは、イエスさまがわたしたちの全部の罪の代わりに十字架で死んでくださった救い主だ、ということを信じて救われたんです。おじいちゃんもイエスさまを信じて一緒に天国へ行こう。このお祈りをしてください」。そして、救いを受け入れるお祈りの言葉を書いた紙も一緒に入れました。

 主人と病室に入ると、その日は祖父の体調が良く、ベッドの上に2時間ほど座ってずっと話し込んでいたので、やはりまだまだ長生きできそうでした。手紙は「後から読んで」と言って渡して帰りました。

 

「神さま。この苦しみを取り去ってください」・・・

 次の日、日曜日の深夜、事態は急変しました。看護師さんから実家に電話がかかり、父と母が駆け付けると、「苦しい」と言うので、母が手を置き、「神さま。この苦しみをどうか取り去ってください」といやしのお祈りをしました。すると、祖父はそのまま、ふーっと静かに息を引き取ったそうです。

 早朝、父からの電話でわたしは実家に駆け付けながら、途中、「イエスさまを信じ救われていましたら、その証しに、死に顔がスマイルでありますように」と祈りました。着くと、すでに教会の牧師さんが来て、葬儀の打ち合わせをしていました。「あれ?」と思いつつ、顔に掛けてある布を上げて見ると、祖父の顔はとってもスマイルでした。わたしは、とっさに天国に行ったことを思い、うれしさが込み上げてきました。「おじいちゃん。とっても笑顔だなー」と周りに居た人たちにも告げると、深夜に祖父の顔を見た人が、「苦しそうに口を開け、顔がゆがんでいたから、直してあげようとしたら、すでに硬くなって動かなかったのに」と驚いていました。母も「不思議だわー。死んだ時、鼻にパイプとか通して苦しそうな顔だったのに…。まあ? 時間がたったら変わるなんて」と言っていました。召された後に現された奇跡のわざでした。神さまを知らないたくさんの人までもが、「あら。いい所へ行ったんだなー」「天国を見たのねー」と思わず口をついて出るほどでした。

 

「わしの葬式をキリスト教式で!」

 祖父は、キリスト教式の葬儀について、亡くなる何時間か前の夕方ころ、この時はまだ元気だったそうで、父と母がお見舞いに行った際に「わしの葬式を、キリスト教式でやってくれ。もし、反対する親せきがあったら、その時は会社(祖父は昔、会社をやっていましたので)の役員だったHさんに保証人になってもらうよう頼んであるから」と指示していたのでした。  祖父の葬儀は希望通り、キリスト教式で執り行われました。約350名の人が来てくださいましたが、天国があることを感じ、多くの人が「とっても良かった。わたしもキリスト教式で葬式がしたい」「わたしは息子にキリスト教式でやってくれ、と頼んだ」と言ったほどでした。すべての栄光を主にお返しします。

 

 

「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」ヘブル人への手紙11章16節

 (岡山県 村上佳枝)